自然素材の度合いをどう見るか?

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん

「自然素材の家」を謳うのに、基準はありません。

95%だろうが、5%だろうが、

(ほんのちょっぴりでも)使っていれば

「自然素材の家」。



アレルギーや、化学薬品に敏感な人でなければ

その家の「自然素材」の占める度合いは、

・・・実は、そんなに問題ないのかもしれない。
(ご本人が気にしないのであれば)



そんなことを言うと、永家さん夫婦に怒られそうですが

語弊の無いように言えば、どんなに良いと思って売っても

大切に思っていることや「価値観」が違えば、

心には響かないということです。



それはともかく、本当に自然素材の家を欲している、

そういう人たちにとっては95%と5%は、全く違う。


目に見える場所だけに、いくら無垢の木や珪藻土あたりを使っていても

なんとなく薬品っぽい臭いがしたり・・・では困るのです。



では、専門家や大工さんでもない私たちが

その家の自然素材の占める割合をどうやって見抜く(?)のか。


数字で表せるわけではありませんが、

「自然」に対するその会社の目線であったり、

「自然素材」をどこまで突っ込んで語れるか?

ではないかと思います。



日頃、アレルギー反応で苦しんでいる人からすれば

どこまで素材に配慮して作っているかはとても大切。



「自然素材の家」としながらも、フローリングだけだったり

あとは表面的なデザインや価格に終始する内容なら

あまり、中身の素材までは期待できないかと思います。

だって、そこまでこだわってたら、言いたくなりますもん!



見学会等に行って、応対してくれるハウスメーカーなり

工務店の人が、何を夢中になって話しているか?も

大事だと思います。



それに「自然素材の家」を売りながら

「自然」に興味関心がないのも・・・ちょっと違うかも・・・。



森、空、水の流れ、花が風に揺れる様子。

そんな自然の風景に心動かされたり、

自然の不思議な仕組みに驚いたり、

目線の先に、何があるのかも大切だからです。



もくせい工舎の家


実際に、もくせい工舎のような家の建て方を見て

ものすごく心動かされる人と

そうじゃない人がいるのも事実だと思います。



それもまた、価値観だったり

何を一番大切に考えるかだったり

視線の先にあるものの「違い」だったりします。


私の実家は昭和50年代に建てられた普通の建売住宅です。


私の母は、「効率」重視ですから

わが家を見て「すぐ傷がつきそう」と言いました。



ずっと「長持ち」して「手間がかからない」のが

母の目線です。



とはいえ、私が嫁ぐまでの20ウン年間、

何度リフォームしたか分かりません。

「長持ちするはず」だった家です。



「家がもう1~2軒建つくらいリフォーム代に使った」と言っていました。



私は、リフォームありきで、そこまでお金を出せません。



ゆっくり、一緒に歳を重ねていくような家に住みたかった。



そこはもう、目線の違い。



自然素材にも「クセ」はあります。



これも度々書かせてもらいましたが

本当に、本当に、家は伴侶の様なもの。



いくら他人がうらやむような

見た目、金銭面、地位(ネームバリュー)でも

相性や、幸せかどうかは分かりません。



あなたは、何が大切ですか?



あなたの目線の先には、何がありますか?



良い出会いがありますことを、心よりお祈りしています!

それが私の「全て」ではない

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん

私事(?)ですが、自主上映をすることになりました。

上映作品は、以前ブログでも書いた

『彼らが本気で編むときは、』です。

以前のブログ記事は→こちら



子どもの通う学校の校長先生に話したところ、

「あんた、それやったら、こんだ(今度)

こ~ゆう人がくるけん、ちっと、いってみらんね?」



あるトランスジェンターの方の講演会でした。



『彼編む、』は、トランスジェンターのリンコさんが主人公。

でも、私自身、実際にトランスジェンターを

カミングアウトしている人に会ったことはありません。

居ておかしくないのに、会ったことがないのは

「言えない」から?

ともかく、せっかくの機会なのでお話を聞いてみたくなりました。



講師のNさんは

女の子の身体で生まれましたが、

「女」であるという性自認はありません。

でも、長年「男」として生きてきているわけでもないので

「男」という性自認もなく、「男」とか「女」とか

2極で選べと言われると、どこに〇をつけて良いのか分からないとのことでした。



恋愛対象は、女性に対して。



胸の切除だけ、体の工事(リンコさん風に言えば)をしています。

名前を元の女性の名前から、

男性の名前に変える手続きもしています。



色々なことを話してもらいました。

「性同一性障害と、トランスジェンターの違い」のことも。

自分の心と体の性が一致しないことは

病気や障害ではなく

「自分らしさ」や「生き方」としてとらえている人が多いという

トランスジェンター。



一番印象に残ったのが、次の言葉でした。

「自分は、トランスジェンターではあるけれども、

トランスジェンターであることが、私の全てではない」



白か、黒か。

男か、女か。

善か、悪か。



2極の境が、はっきりすることなんてない。



映画の中で、男の子として生まれたリンコさんは

「おっぱいが欲しい」と言う。

かくいう私は、

女として生まれ、性自認も「女」で、

恋愛対象も異性の「男性」です。

結婚し、子どもまで産んでいます。


しかし、実はリンコさんほど

「女」でいることにこだわりは、ありません。

じゃ、ずっとそうかというと

歳追うごとに、と言う感じもします。



その点はLGBTであっても、なくっても

変わることはあるみたいですが。

そうなると、ますます

誰かの一部分、しかも時間的にも絶対とは言えないことで

分けるのは、ずいぶん乱暴な感じがします。



LGBTのシンボルマークは虹。



色の境目なんてない。



誰かが決めた「普通」や「白黒2極」に当てはまらないから

疎外感を感じたり、差別されないといけないの?



「トモちゃんとはもう、一緒に遊んじゃダメよ。

一緒にいた人、見たでしょ?・・・普通じゃないの。」



元々は、『彼編む、』の予告編に出てきたこの言葉に

妙に引っかかったからでした。

これがまた、そのセリフをいった

カイ君のお母さん役の小池栄子さんの演技が上手で、

「あ~。おるおる。こんな人・・・。」

って感じで。



・・・「普通」じゃないと、危ないの?


そう考えると、ヘンテコな話。

よく分からない人物だから?

「普通」か、「普通じゃない」か。

自分と違う人間を排除し続ければ、

いずれは、自分も独りぼっちです。


だって、みんな違うんだから。

後悔するようにできている

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん

人間っていうのは、後悔するようにできているらしい・・・。



今、お家をどこで建てようか迷っている方もおられるでしょう。

高い買い物です。

やっぱり、建てた後、後悔だけはしたくない。

分かります。



「後悔しない家づくり」

なんていいますが、

人間が後悔してしまうようできているんだったら

「後悔しない家づくり」なんてない・・・ってことでしょうか。
工務店の広告描く人間が言うことではないですが、
・・・もくせい工舎は、こんな感じで。
実は、以前にも少しだけ書いたことがあるんです。おさらい。




「人は必ず後悔するよう出来ている」



例えば、
1.「1万円プレゼント!」と「2万円プレゼント!」

・・・どちらが嬉しいですか?

殆どの方、後者だと思います。

では、
2.「1億円プレゼント!」と「1億1万円プレゼント!」・・・は、どうでしょう?

・・・そりゃ、後の方が嬉しいんだけど、

最初の1より、同じ1万円でも印象が違いませんか?



同じ1万円お得でも、

2倍になったように感じる1の方が、うれしい。

2は、ちょこっとおまけっぽく感じる・・・。



価値が高くなるほど、人間の感じ方は鈍くなる。



・・・なるほど。

1万円のものを買うのに、「今なら2万円で更にグレードアップ!」

と言われると、全くその気になりませんが

1千万のものを買うのに、「今なら2万で・・・」と言われると

同じ2万でも、「それくらいで、さらに良くなるなら・・・」と

思っちゃいそうですよね。



もう一つ。



例えば、

「お小遣いに1万円もらった!」喜びと、

「その一万円を落としてしまった!」悲しみは

・・・実は、後者の方がより強く感じる。

もともと、「0ゼロ」だったところに

「+プラス」された喜びより

落とした「-マイナス」の方が、大きく感じる。

元々なかったんだから、元の「ゼロ」には変わりないのに

「-マイナス」になったようで、がっくりくるというわけです。



1.その価値が高くなるほど、人間の感覚は鈍くなる

2.同じ価値でも得したプラスの喜びより、失ったマイナスの悲しみを強く感じる。

・・・難しい言葉で『プロスペクト理論』と言うようです。




「AかBか」

どちらにするか、迷ってなかなか決められない。



どう考えてもBが良いなら、迷ったりしませんよね。

迷うのは、AもBも同じくらいの価値があると思っているから。



迷った挙句、Aをとる。

Aは手に入れたので「+プラス」。

結局選ばなかったBは失ったことになり、「-マイナス」。

・・・あれ?マイナスの方がより強く感じるんでしたよね?

同じくらいの価値だったから「AかBか」で迷っていたはずなのに

Bを失った悲しみの方が、Aを手に入れた喜びより大きい。



「AかBか」迷って、「決断」すれば、片方は必ず失う。

「決断」しなければ、「AもBも」失わず済みますが

「ゼロ」のまま。


今度は「結局何も決められなかった」「何もしなかった」なんてことを

「後悔」しそうです。



「決断」してもしなくても「後悔する」

ならば、


「後悔はするかもしれないけれど」

自分でよく考えて、自分で決め、「行動した」ことは

もう、諦め?もつくじゃないですか!


何もしないより、必死で、イキイキとして

人間臭くて・・・なんだかいいですよね!



後悔は、するかもしれない。

でも、過去必死で迷って考えていた「私」だって

「今」や「未来」の自分を困らせようとしたわけではない。

反対に、良かれと思っていたから

失った反動を大きく感じすぎてしまっているだけ。



後悔したからと言って、「間違っていた」わけではありません。



家も人も、ご縁。

結局、迷ったけど

「理屈じゃなかった」なんてことだって

きっと、あります。