すだちを前に

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


春先から、わが家の庭に小鳥の声が目立つようになりました。

さえずり?

いえいえ、けたたましい警戒音というか、威嚇音。

「ジョジョジョジョジョジョジョッッ‼‼‼‼‼‼‼」

シジュウカラか、セキレイか?
茶色のくま取りの鳥もいる。

センダイムシクイかな~、
それにしては大きいような・・・。

その正体、後日判明することとなるのです。


ある日、ご近所のミケちゃん(♀)が
わが家の庭先を通って、
そのまま用を足しに、ウチの畑へ。(・・・って、家でしようよ。ミケちゃん。)

さかんに、その頭上を飛び交って、
(御用の最中の)ミケちゃんの頭に、蹴りを入れる小さな鳥。

ミケちゃんも、「なんや、なんや?」って感じで
そそくさと退散します。(・・・って、出たんなら埋めようよ。ミケちゃん。)

「子育て中は、気がずいぶん強いんやなぁ~。
それにしても、猫に蹴りまでいれるかしら・・・。」


そうこうするうちに、窓の外を見ていた夫が「ナニワイバラの所に、なんかおる」と言う。

「ん~?」

20240415_モフモフのヒナ

なんか、モッフモッフの鳥がいる。

夫:「スズメやろうか?」

20240415_モフモフのヒナ

ヒナなのに、スズメより大きい。

くちばしからしても、鷹っぽいというか
草食のソレじゃない。

「・・・モズの子どもかもしれん」

そう、ミケちゃんの頭に蹴りを入れていた強者の正体は
モズだったのです。

20240415_20240415_モズのヒナ
かわいい顔でエサをねだるの図?いや、この子自体が「ジョジョジョジョジョ!」と警戒音を出していたのでした。赤子でもモズは強し。

なんでも、モズは鳥の中でも巣作りの時期が
2月くらいからと早いらしく、

うまくいけば4月中旬には巣立つとのこと。

20240415_モズのヒナ

そうか、この子もそろそろ巣立ちの時期なのね~。

20240415_モズのヒナ

それにしても、かわいい顔です。

くちばしや胸の模様は猛禽類みたいだけど、
スズメ目(!)モズ科の極々身近な鳥です。


その、モズのヒナが隠れていたナニワイバラ。

昔住んでいたアパートの近くに、小さな雑貨屋さんがありまして
そこの屋根を覆っていた圧巻の風景が忘れられなくて

家を建ててしばらくして、庭に植えました。

時期になると、たくさんの目玉焼きみたいな花がびっしり咲いて、
それはそれは見事なのですが

20240415_ナニワイバラ
おしゃれ庭じゃなくてすみません。フォトジェニック感少な目です。

実はあまりお勧めできないバラ。

病害虫の心配もなく、ほったらかしでもよく育ちます。
もう、じゃんじゃん育つ。
・・・育ちすぎるのです。

そのくせトゲはかなり鋭く、血しぶき覚悟で剪定せねばなりません。

でも、この鋭すぎるトゲが外敵から身を守るのか。

小さな鳥などが、ここを拠り所にしているようです。

香りはそんなにない花なのですが、蜂たちがよく集まり、
なかなか蜜集めのお役に立っている模様。


元々は砂利敷きの敷地だったところに
少しづつ樹を植えて

落葉樹の落ち葉が層になり、

だんだん「なんちゃって森のような」庭になりました。
(マメじゃないので、草ぼーぼーワイルドガーデンというか、ほったらかしガーデンと言うか。)

20240415_森もどき
真ん中はシマトネリコ。・・・これも雑木の庭が好きなら、今思えば、ちょっと違う感じ。


コンクリートで固めれば手間もかかりませんが、

土と木がある風景は、モズや他の鳥、昆虫など

多種多様な出会いをもたらしてくれることがあります。

土があり、木がある風景は、
風の通り道にもなります。

手間ひまがかかることは、敬遠されがちな世の中で

土にふれ、木にふれることは、
人間にとって代えがたいこと。

人間だけがこの世に生きているわけじゃなく、

この世界の一部として生きていることを
再確認させてくれます。

そんな同じ生き物としての
モズの子の巣立ちも近い。

20240415_タンポポの綿毛
今か今かと風を待つ。

広い世界へ飛び出したくてウズウズしている様子は、

くたびれた中高年を、ハッとさせるほど
キラキラまばゆいのでした。

卒業の日に

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


先日、みやこ町のお家の撮影に伺いました。


1080_IMG_2007.jpg
うまいタイミングで、庭に花があれば、それを持参します。この日は、一重のヤマブキとピンクユキヤナギをプラスできました。
桜が咲く前に咲きだす、寒い時期にありがたい花です。

飾るための花を活けていると、遠くから音楽が聞こえる。

ゆずの『栄光の架橋』でした。

「・・・卒業式かな?それとも練習かな?」

静かなので、風に乗って聞こえてきたのかもしれません。

お客様の中にも、この前卒業式だった!という方が
いらっしゃるかもしれませんね。

私事ですが、わが家の次男坊もこの度高校を卒業しました。

小さいころ、発達障害の疑いがあるかもしれないと言われた子でした。

重度ではないからと、特別な療育をうける機会もなく、

もっぱら私が気に入りの絵本を何百回と繰り返し読んで、
出てこなかった言葉を、少しづつ覚えてきました。

ただ、所作や言葉、人との距離感に
彼独特な感じがあるので、違和感があったのでしょうか。

小学校時代には、一時期いじめの対象にもなり、
おだやかではあるものの、なかなかこれといった友人もできず。

母親としては、「ひとりでいること」は全く恥ずかしいことでも何でもなく、

たまたま親が選んだ土地で、同じ世代だからって
気が合う合わんは別の話で

本当に気が合う人なんて
少なくて

だからそんな人に会えたら超ラッキーなんだから
大事にしたらいい。

ひとりでいても、堂々としてる方が
カッコいいんや!

ひとりの時は、ひとりでできることを楽しんだらいいし、
みんなの時は、みんなでできることを楽しんだらいい!

・・・とか何とか、彼が決して
自分をみじめだと決めつけないように
声かけをしてきました。


小さな子のお世話をするのが好きな子だったので、
6年生になると、1年生の教室にちょくちょく顔を出して、遊んでいたようです。

他の6年生は、同学年の友達と外で遊んでいるのに
ちょくちょく(呼ばれもしないのに)顔をだす次男に

1年生の担任の先生が
「○○君、いっつも来てくれるんですよね・・・」と、
ちょっと困惑したように言われたこともあります。

・・・うん。先生のおっしゃりたいこと、よくわかります。

そりゃ、・・・なんで?と言いたくなるでしょう。

彼は、そんな空気が読めない。

同じ学年の子と一緒に遊ばんと、友だちおらんのかって思われる・・・。

とか、まず考えない。

よっぽど嫌な顔をしない限り、1年生の担任の先生の
微妙な表情なんて、まず気づかない。


ところがです。

その彼が小学校を卒業する時。

割と小規模な学校なので、
在校生が向かい合って並んで、手でトンネルをつくり、
その中を、卒業する6年生が通り抜けていくという伝統があります。

トンネルの入り口側に、5年生から並んで、
出口には、1年生が並びます。

雨の日だったので、出口もちょうど1年生の教室前でした。

出口側で写真を撮るべく、待ち構えていると、
出てきながら、ニコニコ笑顔の息子。

息子が通ると、何人も、何人も、
1年生が彼に抱きついています。

「▲▲さん・・・。」

ふと声をかけられて、顔を上げると、
あの1年生の担任の先生です。

「本当に、子ども達が、あんなに○○君を慕ってて・・・
本当になんて言っていいか、感激して・・・
ありがとうございました・・・」

と、ボロボロ泣いておられたのでした。

・・・いやいやいや!こちらこそ、なのです。

なんだかビミョーな感じだったのを、変だとか何とか言わず、
先生が見守っていてくれたから、
最後の最後で、こんなプレゼントを頂いているんです。

ありがたいのは、本当にこちらの方でした。


その次男が、中学を卒業する時。

同級生で、支援学校に行くことになった子がいました。

次男も「なんでかわからん。勉強も普通にできよった。」と言うし、
どういう経緯だったのかよく分かりません。

色々複雑な事情もあるようでしたが、
「大人になったら働いて、きょうだいを呼び寄せて
一緒に暮らす」と言っていたようなので、

よほどしっかりした子です。

その子が、この春卒業に当たり、
卒業生を代表してあいさつしていたことが
新聞に掲載されていました。

「成長を続け、自分らしく生き抜く

幸せな大人になります。」

・・・◇◇くん。

そんなこと、大人でも考えつかないよ・・・。

そんな言葉、まず出てこないよ・・・。

目標達成とか、夢の実現とか、
社会の役にとか・・・。

誰でも言いがちなことを超えて、
なんて核心に迫った言葉だろう。

彼がこの3年間、仲間たちと過ごしてきて
何を思い、考えて来たかは分からない。

ただ、かかえる境遇がどうあれ、

その人らしく生き抜いて、しあわせだと感じられる大人になるということは

人が生きる上での、本質をついているんじゃないか。

いい大人になった私でも、彼ほどの視点で
これほどの的確な言葉で、

みんなの前で堂々と宣言できるだろうか。

支援学校に行くよう勧めた先生が、この言葉の意味がわかるだろうか。


「◇◇くん、本当に賢いのは君かもしれない。」

本当に脱帽でした。適わない。


色々な子が、

回り道をしてでも、色々な景色をみてきた子が、

何かと何かをつなぐ、かがやく架橋となりますように。

幸せに生き抜ける、そんな世界でありますように。


虹の架橋


みなさん、ご卒業、本当におめでとうございます。


あのこのねどこ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


秋くらいから、わが家の物干し場の屋根の下を
寝床にする猫がいました。

白黒のハチワレで、たぶんオス。

顔はパンパンに大きいのに、体はやせて、細長い。

しかも足が長いので、全体的に、にょろりとした印象。

何かに似ていると思ったら、

昔『ネバーエンディングストーリー』という映画に出ていた
ファルコンの、

にょろりとした猫

・・・顔が猫版。

鼻はズルズル、体も汚れきって
The 野良猫!といった感じの子。

人慣れもしておらず、はじめのうちは顔を見るだけで逃げていました。


ハチとゴマ
珍しくひっついている。

わが家には、元野良猫が2匹います。

2匹とも最初からフレンドリーで、
私の様な素人でも保護自体は簡単でした。

それでも、
後輩のゴマちゃんを家に入れた時、
先住のハチさんがかなりナーバスになったこと

わが家に来れば完全に外の自由はないこと
(もう外に出れないと分かって、暴れて大変だった・・・。)

色々な理由で・・・そうそう気軽に保護できない。

そこで、エサは与えないけれど、
寝床は冬の間、大目に見ることにしました。
(エサは、猫界のマザーテレサ?のようなご近所さんから
おこぼれをもらってるようでしたし、それに敷地内で凍死されても困る。
どのみちどこかで寝るのなら、
猫嫌いの人の敷地より、ウチの方がまだましかも~と判断した次第です。)

とはいえ、おらが村は市街地より冷え込みます。

冬場は、氷点下になることも珍しくありません。
(窓と窓枠が凍ります。)

さて、どうするか。

そこで思い出したのが、ウン十年前の記憶。

私が育った地域では、ホームレスが多くて

街中まで徒歩で行けるような
高速道路の下などに、その人たちの住まいがありました。

通学のバスの中から、
彼らの住まいに「お布団」があるのを見て、

「なるほど!とにかく、住居の基本は
温かい寝床なんだ」と実感したことがあります。

野良猫もきっと同じはず。

雨風がしのげる場所であるのはもちろん、とにかく、断熱。
そして、できたら加熱・保温です。

プチプチの梱包材を100均で買ってきて、段ボールに貼り、
外側は、ボロボロになったアルミシート付のショッピングバックで覆い

温かそうな布と、夜には使い捨てカイロを入れます。

そうこうするうちに、その猫も
怖いんだけど、どうも寝床を用意している人間だと認識してくれたのか

カイロを入れ替える間、
逃げはするものの、少し離れて
終るまで待っているようになりました。
(顔は、・・・寒いんやけ早く!と言いたげだったけれど。)

カイロを入れて、助かったのが
その猫の下痢が治ったこと。

片付けるのが大変だったので、これは思わぬメリットでした。
(よっぽど冷えていたんだろうと思います。)

朝、洗濯物を干しに出ると、
湯船に浸かるように

気持ちよさそうな顔をして

段ボールの縁にあごを載せているので

なんだかかわいい。

でも、今は姿を見ていません。

代わりに他のオス猫がうろつくようになったので、
喧嘩に負けたのかもしれません。

野良猫の世界は厳しい。

せめて寝床くらいと思ったけれど

猫好きな人ばかりじゃないので、
寝床を用意するのも、良い顔はされません。

・・・でもな~。

好きで(野良猫にしろ、ホームレスにしろ)こうなったわけじゃなかろうもん!
と、思うのです。

世渡りもぎりっぎり!の危なっかしい私などは、
明日は我が身だし、他人ごとではないのです。

輪廻転生という言葉があります。そのホントウは、私にはわかりません。

真相はともかく、
今厳しい目に遭っている人や命に
生前の悪行が・・・なんていうのも、なんだかなぁと思います。
(悪行までいかなくても、みんな気づかぬうちに色々やらかしてるはず。)

それでいうと、罰が当たった的な視線より

ホントウは、
「明日は我が身なんだから、無下にするな」ということじゃないか。

そう信じたい。

もう来なくなったあの猫が、
どこかで死んでしまったのか。

もしかして、可愛がってもらってるのか。

それは分からないけど、

いのちを無下にすることは

やっぱり嬉しくはない。

お金を払えば、ペットショップで可愛い犬や猫が買える。

あれを人間だったら・・・と想像して

見目可愛らしい人間の子どもが、

母親が恋しい年頃の小さな子どもが、

ショーケースに入って売られているようなところを想像して、

なんだか普段、意識しないことが怖くなる。

一番怖いのは、
自分に限ってってことかもしれない。

自分に悪い部分も、醜い部分もあると意識がある人より、

全くの善人のつもりでいる方が、なんだか始末に負えない。

薄ら汚れて、すっかり野良猫臭くなった
あの段ボールにカイロを入れる度、

どこで何しているんだか、と思います。


うるう

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


本日は2月29日。つまり、2024年は、うるう年です。

「私、うるう年の生まれやけん、まだ4歳なん~」

そう言っていた同級生を、2月29日が来るたびに思い出します。


このうるう年。

実は、必ずしも4年に一度じゃないらしい。

条件があって
①西暦が4で割り切れること

ただし、例外があって

②①のうち、西暦が100で割り切れ、400で割り切れないものは平年とすること。

・・・・・・どういうこと?

例えば、2000年や、2400年はうるう年だけど
2100年や2300年は
4や100で割切れても、400で割り切れないので
うるう年ではなく、平年となります。

・・・となると、単純にうるう年生まれだから
4年ごとに何歳~ってわけでもないのかしら。

とは言え、例外のスパンが100年、400年なんだから
一生のうち例外に当たることは稀なのか。

たとえ2月29日生まれでも、
カレンダーにそもそもないから、
29日の表記がないかぎりは、「うるう年のはずなのに~」なんて実は意識しないのか。

うるう年生まれのあの同級生も、
もう半世紀以上生きて、いまさら何歳だったかなんて気にしてないかもしれない。
(そうして、まさかこうして遠く離れた場所で
イチイチ思い出している同級生がいるとも思わないだろう。)

そもそも、うるう年がなぜあるのでしょう。

それは一年がきっかり365日じゃなくて
365日と約1/4日だから。

つまり、そのままきっかり365日で計算すると、
4年経つと1日多くなる。

その調整として2月29日を入れている。

・・・でもなんで、2月?

ざっくり調べたところによると、
農作業が3月はじまりだったので、その年度末にあたる2月で調整となったみたいです。
(ざっくり、です。本当は奥が深くてよく勉強しないとワタシじゃ分からんです・・・。)

「うるう」を漢字で書くと、閏。

太陰暦を用いていた昔の中国で、
王様がその日は門から出ず、政務を行わなかったから。

・・・らしい。

これも「ふ~ん」とは思うものの、分かったような分からんような・・・。
(よく勉強しないとワタシじゃ分からんです・・・。)

とはいえ、地球の自転にムラがあるっていうのは
なんだか生き物っぽいというか、

地球って生きているんだな、と実感します。

そんなんきっかり、計算通り行くかい!って感じが、
妙な生き物っぽさというか、

地球自体が、自然なものなんだと実感するというか。

その地球に、今日も又どこかで
2月29日生まれの子が生まれている。

そして、同級生に話すんだ。

「私まだ、●歳なん~」って。

それを何年たっても、思い出す同級生がいるかもしれない。

2月29日が来るたびに、その子のことを、ふと思い出すに違いない。
(私の様な変わり者であれば、かな。)

それでも、どこかで誰かが思い出してくれているって
いいものです。

思い出す度に、うれしくなるような
こそばゆくなるような、

そんな出合いはいいものです。

そんな【うるう2月29日生まれ】の皆さん。
お誕生日おめでとうございます。

0のつく日に記事を書くと、2月に困ると今気が付きましたので
5のつく日に記事を書こうと思います。
こんな調子ですが、もしよければ、どうぞお付き合いくださいませ。

満足は誰のもの

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


土と雑草のことが知りたくて買った
『自然栽培』という季刊誌に
『自分で治すという考え方』というコラムが載っていました。

バランス健康アドバイザーの工藤和也さんの記事で、

頑張りすぎて、
あれもダメ、これもダメ、と否定や排除ばかりするよりも、

頑なさをユルめて、
ありがたがって、しっかり噛んで食べるほうが

心身のバランスに良いのでは?

というような内容でした。

ご自身が、花粉症を治したくて、

ゴリゴリに食べるものに拘ってしまって
他人の食べているものにも口出しするようになり、

周囲に、BBQにも誘われなくなったことを書いておられたのは
爆笑してしまいました。

『自然栽培』という、こだわっていそうな季刊誌に
少し肩の力がユルむような記事で
とても印象に残ったのです。

さて、ここで本題です。


マーケティングは顧客からスタートする。

顧客の現実、欲求、価値からスタートする。

我々の製品やサービスにできることはこれである、ではなく、

顧客が価値ありとし、必要とし、
求めている満足はこれである、
と言えなければならない

ピーター・ドラッカー

広告を書いていると、ついついドラッカーいうところの、
【製品やサービスにできること】を伝えたくなる。

自然素材で家さえ建てれば、こんなメリットが!って言いたくなる。

無垢の木と漆喰の家の良さは分かっていても

自然素材で建てさえすれば
すべての問題が解決!
すべての病気が治る!みたいな書き方は
ちょっとアウトだと思うのです。

健康なものばかり食べていても
人間いつかは死ぬように

自然素材の家に暮らしても、
たまには風邪もひきます。

どんなに気を付けても
いつか死ぬ。

そんな死に方を選べない私たちが、唯一選べるとしたら生き方なので
時折、不安が暴走して、

頑なに偏ってしまうのでしょう。
・・・BBQに誘ってもらえないほどに。

それは、何を大事に生きていくかという
バランス配分の話になりそうです。

つまり、死に方より
大事にすべきは、生き方。

どういう状態の
心と体で生きてきたか、ってことじゃないでしょうか。


では、
顧客が価値ありとし、必要とし、
求めている満足はこれである、
と言えなければならない

ような家ってなんでしょう。

お客様には、
こんな風に暮らしたいというイメージがある。

それを叶えてくれそうな、家に会う。

いやいや、自分たちにはムリやろ~。

え?もしかしてできるのか??

その家が、建てている途中も、
住んでからも、

想像以上の満足度であったとき、

それは、きっと大切な誰かに勧めたくなる。

「不安やったけど、できたよ。
すごくいいよ」って。

「○○さんがこちらで建てていて、行ってみたら本当に良くて。
話を聞いても、おススメだと言われて・・・」


口コミレビューがあふれる今の時代にあって、

知らない誰かの「いいね!」より

知っている誰かの、お墨付きほど
信頼できるものは無い。

それは、
建ててくれたお施主様たちが

次建てることがあっても
【またもくせい工舎で】と思っていただけて叶うこと。

そういった方が多いほど、叶うこと。


顧客が建てたいのは

「工務店がこだわった」家ではなく

「自分たちがこだわった暮らし方」の家。

それが叶えば、家にはどこか
そのご家族らしさがでる。

その人となりや、個性がでる。

施工事例の一覧に、それを感じるかもポイントです。


「そうは言っても、今、何もできない」

そういった方ほど、できることがあります。


施工事例を、たくさん見てください。

実物をたくさん見てください。

そして、自分たちのこだわりを
少しでも叶えてくれそうな工務店を
見極める眼力をつけてください。


顧客のワタシが価値ありとし、
顧客のワタシが必要とし、
顧客のワタシが求めている満足

を満たした家を建てなくちゃ!

「誰かにこう言われた・・・」ってこともあるでしょう。

それでも譲れないことはあっていい!と思います。

お金出すのは、自分たちなんだから
顧客のワタシが満足しないといけません。

「なんも知らんけ、
アドバイスして、説得してやった」というのは相手の満足ですよ~。

大事なのは、例え経験が浅い人間の望みにも
「こうはムリやけど、こういうやり方は?」と代替案が提案できるかです。

間違っても、「は?そりゃ金だせるならやってやるよ」じゃ
ダメなやつです。

創意工夫できる、(色んな意味で)余裕があるかないか。それが大事です。


前述のコラムではないけれど、

ゆずれない部分の頑なと、
ユルめのバランス、

そして、ないならないで何とかする
【創意工夫】が大事です。

どうぞ、やれるだけやったという
【自分たちの満足】のいく家づくりを!


猛省トイレトレーニング

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


今だから笑い話になるのですが、長男が年少の頃
トイレトレーニング(大きい方)が、全くうまく進まず
本当~に悩んでいた時期がありました。

ここからは、排せつに関わるお話。

下ネタに思えて苦手な方は、パスをお願いします。
排せつも、自然なこと、当たり前のこととして、読める方は、どうぞお付き合いください。

小さなお子様のいらっしゃる方は、参考になる・・・?かなぁ?どうだろ。

「うんち行きたくなったら教えてね、いっしょにトイレに行こうね」

優しく声かけようが、何しようが
全くトイレでしない。

ちょくちょく兄弟で入院していたので、
大部屋になった時が一番困りました。

当然、病院のトイレでもしないので

ウンケづいた時はすでに遅し・・・。

大部屋全体に、相応の臭いが漂って
恥ずかしいやら、申し訳ないやら。

大柄な子で、実年齢より大きく見られもしたので
「あんなに大きいのに、トイレでできんのかよ!」
って思われていそうで

めちゃめちゃ肩身が狭い上、うまく「しつけ」すらできないのを
母親としてダメだと思えて
・・・ホント、つらかった~。

ところがですよ。

先日、読んだ本で衝撃の事実を知るのです。

本の名前は
『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』 著|山本 健人

外科のお医者さんが書いた本です。

その中に『とてつもない肛門の機能』という章があって
読んでいる最中に、何回も驚くことに。

直腸まで降りて来たモノを選んで、
固体は残したまま、気体だけ通す。

(・・・だいたい何が言いたいかイメージしていただけましたか?)

そう、あのオナラだけ出す、ということを
人工的にやろうとすれば、まず不可能なんだそうです。

そういえば、無意識にやってる。

固体だけ残して・・・なんてわざわざ考えてません。

・・・すごいな、肛門!

そしてさらに私を驚かせたのが、この機能。

ウンチを無意識にせき止めておき、好きな時に排出できるというもの。

降りて来たと同時にすぐに出てしまっては、どんなに困るか
想像はつく。

出物腫物ところ構わず、では困るのです。

それをコントロールするのが
肛門の出口付近にある二つの括約筋。

外肛門括約筋と内肛門括約筋です。

外肛門括約筋は随意筋。
自分の意志で動かせます。

お尻の穴を、キュッと自分ですぼめられるのは、
この外肛門括約筋の働きです。

内肛門括約筋は不随意筋。
自分の意志とは関係なく動くもの。

直腸に降りて来たものがいっぱいになると、
まずこの内肛門括約筋が緩む。

意識的に外肛門括約筋を締めていれば、
ある程度、我慢できる。

そして都合の良い時に、
意識的に緩めて、排せつする。

それが、【トイレまで我慢して行ける】ことになる。

・・・ところが、この機能。
乳幼児は未熟らしい。

・・・ちょっと待て。
え?・・・んじゃ、しつけどうこうじゃなくて

まだ未熟だから上手くいかんかっただけなん???

そう。
まず首が据わらなければ、寝返りもお座りもできないように

外肛門括約筋を自分の意志で動かせるようにならなければ、

トイレまで我慢する・・・ってことが
まずできない。

その外肛門括約筋を自分でコントロールできるようになるのも、

歩き出すのが早い子と遅い子がいるように
きっと個人差がある。

・・・何たること。

二十年近く前のワタシに教えてやりたい。

子どもがダメなわけでも、親がダメなわけでもない。

まだ上手くいかないだけなんだ、と。


ところが、今までできていた大人でも
反対のことが起こりうる。

それは病気や手術だったり、加齢だったり、
出産だったり。

何かをきっかけに、それまで出来ていたことが
上手くコントロールできなくなることがある。


それは、大部屋で味わった肩身の狭さなんか
比べ物にならない感情だろう。


本で書いてあった内容を、長男に話してみました。

「・・・ごめんなぁ~。悪かったよ。本当に。
未熟だから上手くいかんかっただけなのに、知らんで。

やけっち、またオムツでどうぞ!って言われても
嫌やろ?」

「・・・絶対イヤ!

・・・あぁ、それでも衰えれば
うまくいかないことが増えてくるに違いない。

そうすれば、オムツ内に排せつするそれを
本当は嫌だと思っているのかもしれない。

そうはいっても、大変なことは分かっていて、
いたしかたないとお互いに思っていても、

本当は、そうなのかもしれない。

自分の無知を、
自分の子育てを猛省しつつ、

いずれ、自分にも降りかかるかもしれないそれを

複雑な胸中で、締めくくるのです。

本の内容の詳しくは、書店で。とても面白いです。


小心者と隣の芝

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


1月も終わりかけですが

皆さま、初詣には行かれましたか?

おみくじを引いてみた方もいらっしゃるかと思います。

わが家は、不思議なことに
私と長男は、中吉~末吉が多く

片や、夫と次男は
十中八九、大吉が出る。

「おれ、大吉ってほぼない・・・」
年始早々、ちょっと残念そうな長男。

ちょっとここで、仮説を考えてみました。


コップの中に水が半分入っている。

それを

「もう半分しかない」と考えるか
「まだ半分ある」と考えるか。

そういう例えを聞いたことがあるかと思います。

これでいくと、

前者の「半分しかない」と考えがちなのが
私と長男。

「まだ半分ある」と考えがちなのが
夫と次男です。

これ、大吉が出ても同じような反応が出る。

私と長男は、例え大吉が出ても、
「そうは言っても、良いことばかりではないだろう」
ととらえる。

大吉だ!わ~い!

と、素直に喜ばない。

何が言いたいかというと、
同じことが起こっても

そのまま素直に、「わ~い!幸せ~!」と受け取れるか

「たまたまラッキーなだけで、何かあるんでは?」と
捉えるか。

両者の間には、その差があるように思うのです。

「つまりだよ、例え大吉がでようが
宝くじに当たろうが、

神経が細かいと、別のリスクみたいなのをついつい
考えるやん?

やけ、カミサマが

「アンタどうせ大吉出しても
中吉程度にしか喜ばんやろ?

やけ、中吉。」

・・・って出しとるんやない?」



大吉にせよ、宝くじにせよ、
(家でも、ケッコンでも)何かを手に入れるにせよ、

同じ状況で、「しあわせ~」となるかは
人による。

生まれつきかもしれないし、
その人が生きてきた経験上の違いかもしれない。

先のコップの水の例えにしても、

まだまだ、次の水のストックがある場合と
ない場合では、「残り」に対する感じ方は違いそうです。


いずれにしても、私や長男のような小心者は
心配ばかりしていなくてはならず

「しあわせ~」と言えない分、損なような。


ところが、この小心者には役割がある。

小心という言葉には、

気が小さく臆病という意味の他に

細かいことまでよく気を配るというものがある。

気を配ると書いて、気配りで
心を配ると書いて、心配というのも
切ない話ですが

言い方を変えれば、小心者が得意とするのは
配慮とも言えそうです。


「デザインの仕事は、使い手に不便を感じさせないこと」

そういったのは、通信教育のWebデザインの先生ですが

設計寄りのデザインにしろ、何にしろ、

細かいことまで、「万が一」というネガティブを考えつくして
そして回避しようとしていく作業は

ものづくりの現場では必須と言えます。

芸術作品ではなく、そこに使い手がいる以上、

細かいことを気にしない性格だと
(作った本人が気にもしていなかった)何かしらの困りが出てくるからです。


細かいことを気にしない。
オッケー、オッケーの世界は幸せそうですが

細かいことを気にして、配慮して、
少しでも良くなるようにしてきた試行錯誤が

もっと良いモノづくりを支えてきたことは
明らかだと思います。


だから、どちらかというと
小心者の人間は

気疲ればかりで損なのかもしれない。

でも、細かい闇に気が付く人は
意外と
細かい光にも気づくのかもしれない。

細かい光
細かい光って、あまり金と名誉には関係ないことが多い・・・。

だから、(私を含め)小心者のみなさん。

何かを手に入れたくなって、隣の芝が青々眩しくて、

同じように芝を生やしさえすれ.ば・・・と思うかもしれない。

でも、色々気にしぃなあなたは、
きっと芝の管理や、その他もろもろが気になって

手に入れても、余計な心配もついてきたと感じるかもしれない。

思ってたのと違う、と思うかもしれない。

それでも、きっとそれでいいんです。

そうして、心配しつつ
先に進んできている。

そしていつか振り返って

歩いてきた道を見た時に、

なんやかやあったけど、私なりになんとか歩いて来たなぁ~。

そう思うことが、きっと小心者すぎる
私を、誰かを、支えてくれるのではないか。


半世紀ばかり生かしてもらって

中吉には、中吉なりの
何かがあるんだと

そう思うようになりました。


小心者よ、シヤワセは隣の芝にはない。
シヤワセは、自分の足元にある

20240130_アスファルト突き破ってスミレ
スミレは、【ど根性スミレ】とは言われないのね~。でも、どこか誇らしげだ。

きっと極々、ささやかなこと。

中の人 ②

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


以前、中の人という記事を書きました。

ご当地キャラの着ぐるみを被った経験をもとに
なぜか「ありたい自分」の話に。

今回は、その反対というか別バージョンにあたる
カオナシの話。

(あくまで、個人的な感想からの考えです。よければお付き合いください。)

かおなし_1

カオナシは、素性が分かりません。

名前や顔などの素性を知られず、
人に接しようとします。

話をしようにも、誰かを丸のみにし、
その声を借りねば話せません。

本当の弱い自分を隠したまま、

優位に立てば、歯止めが効かないほど横暴になります。

食べ物や、金、特別扱いをチラつかせ、
相手の気を引こうとします。

・・・・・・・・って、これ、やりがちかもしれない。

匿名で何かをすることや、

誰かの話を鵜呑みにして、そのまま他の誰かに話すことや、

普段はビクビクと自信がないくせに、
偏った正義感で誰かを責めることも、

誰かに何かを「してやった」と思うことも、

そんなつもりのあるなしに拘わらず、
思う節がありすぎる。

恐ろしいことに、知ってる誰かの中にも
そしてもちろん、私自身の中にも、
確実にカオナシはいるんじゃないか。

あの映画で、初めてカオナシを見た時、
誰かの、そして自分の、見たくない一部を露呈されたようで
とても居心地が悪かったのです。

匿名性ということで言えば、永家夫妻と違って
お客様に接することがない私は、
どこの誰だか分からない点で、カオナシです。

顔を知られた有名ライターでない限りは、
こういったブログにしろ、
何かのレビューを投稿するにしろ、
匿名なので、何を書いても
どこの誰かまでは分かりません。

第三者のフリをして、何かの目的で
良くも悪くも意見を書くことを
サクラと言いますが

例え、それらのいくつかが
同一人物の記述でも分からないのは、
匿名というカオナシだからです。
(意図の良し悪しに拘わらず、結局は記事自体の信用を失いかねない。
私は、そのほうが恐ろしいので、まずやらないです。)

カオナシは千に、言います。

「これ食うか、うまいぞ。
金をだそうか、千の他には出してやらないことにしたんだ」

何か「してやること」、「あなただけ特別に」。

自分といればいかにお得か、メリットがあるか。
しかも、あなただけ特別なんだということを

意図せずやっていることは往々にある。

それをコミュニケーションツールという人もいるけれど、

そもそも、何かのお得がなければ人は寄り付かないのか。

しかも、その特別なお得で成り立っている関係性は、
お得じゃなくなった途端、離れてしまうのではないか。


子どもが小さいころ、孫に対し、可愛さもあって
どうも財布のひもが緩い祖父母。

「何かもらえたりするから、好いてくれるわけじゃないよ。
もらえんでも、優しい人なら好いてくれるやろ。」

そうやんわり断ったのですが

「いいやん、やりたいんやけ」

悦ぶ顔が見たいって言い方もできますが、

・・・それじゃ、池の鯉と同じだよ。

エサ撒いて、近づいてきた~♪って。

エサがなくなったら、さようなら。

その人の本質を慕って、そばにいたいのとは違います。


着ぐるみの話も、カオナシの話も、
共通するのは、
中の人は、「自分の現状」を良しとしていないこと。
ありのままの、このままの素顔じゃ
不足としていること。

違うのは、自分に磨きをかけて人と関わりたいのか、

それとも、弱い本性を隠して、
メリットや特別感というツールで関わるのかの違いです。

着ぐるみのように「ありたい自分」に近づけば、
そして本質も「ありたい自分」に成長できれば、
それを慕って人が集まるのは、自然な流れです。

しかし、カオナシ的なやり方は
どこか歪に感じます。

どこの誰だか分からない
カオナシ的な役割の私にできることは、
自分のイチ意見に過ぎず、絶対ではないことを伝えること。

考え方の一つとして、あくまで聞いてもらうこと。

それでどう考えるかまで、こちらは操作できないのです。

だから、「中の人」として
自分なりの誠実を目指したいと思います。

カオナシになりがちな、反省をこめて。


過信

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


あけましておめでとうございます。
本年も、もくせい工舎ともども
どうぞよろしくお願いいたします。

元日、16:06。
能登地方で、最大震度7の地震が発生しました。

大津波警報が発令されると、
NHKの女性アナウンサーが必死になって
「いますぐ高台に逃げること!」と伝えていました。

その声が本当に、必死で。
遠く離れた大分にいる身にも
ことの重大さが伝わってきて
テレビから目を話すことができませんでした。

北陸からはるか南にある九州ですら
こんなに寒い冬。

想像すると、心苦しくなります。

本当に怖い目に遭っていなければ、
分からないことがたくさんあり、

それを埋めようとしても、どんな言葉もあてはまらなくて
情けない。

「大丈夫か」と聞かれても、
本当に怖い思いをしている最中は、

この先も大丈夫かなんて
「こちらが聞きたいくらいだよ!」と言いたくなるでしょう。
それくらい、怖い。

上手く言えないけれど、
早く、ふつうの日常が戻りますように。

ふつうの日常のかけがえなさを
こういう時に思い知らされ、

私などは、性懲りもなく
また忘れるのです・・・。


もくせい工舎は工務店で、
この記事を読んでいただいている方の中には、

お家を建てることを検討されている方も多いかと思います。

今回のことで、ちょっと心配になることもあるかもしれません。

家の耐震性能のことは、永家代表に説明を任せるとして、

以下、ワタシの個人的なひとりごととして
ぼんやり聞いていただけたらと思います。


「この家って、地震、大丈夫でしょうか?」


そう質問して、間髪入れず「あ~、大丈夫ですよ」

そう返事をされたら、信じるのは半分くらいにすることを
お勧めします。

なぜなら、実際怖い思いをした人ほど、
【絶対の大丈夫】なんてありえないと知っているからです。

例え、根拠を示せたにせよ
それは【絶対】ではありません。

そして、誰かの言う「大丈夫」を信じて鵜呑みにしても、

何かあった後、その人は責任を取ってくれるわけではありません。

平屋だから、二階建てより危なくない?

津波が来たら逃げ場もありません。

液状化や地割れが起きたら
平屋だから、絶対大丈夫もないでしょう。

地震や水害に強い家とどんなに謳われても、
津波は水が来るだけではありません。

濁流となって、押し流された「モノ」が
流れてくるのです。

ぶつかれば、窓が割れることは当然あるでしょうし、

ましてや火が付いたものが流れてくれば、燃え移るのです。


理論上、「大丈夫」ということはいくらでもできる。

しかし、再度繰り返しますが
本当に怖い思いをした経験があれば

【絶対、大丈夫】はありえない。

そこを簡単に「大丈夫」と口にできる人は、

きっと何かあった後の責任だってとってくれません。


家を建てる地域の、過去の災害を知る。

地盤調査や改良を行う。

耐震性能の良い家に住む。

それらは、前準備であって
【絶対の大丈夫】ではない。

ただ、それらを軽く考えていたか否かは
いざという時の後悔の重さにかかわってくると思います。

用心は、お守りのようなもの。

一番大事なのは、誰かの言った「大丈夫」とお守りを
過信しすぎないこと。

いざとなったら、【大丈夫なはずの家】を置いて

「今すぐ逃げること!」

本当に大丈夫な家なら、避難後戻っても大丈夫なはずです。

誰かの言う「大丈夫」があなたを守ってくれるわけじゃない。

ワタシも
過信しすぎないで、臨機応変に行きたいと思います。

信じるのは簡単だ。
自分で考えずにすむからだ。

シメ。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


以前、『構造見学会とシュークリーム』という記事を書きました。

そこでシュークリームの歯ごたえについて熱弁し、
戸畑にあるマシェリさんのパイシューへの愛を語りました。

記事が埋もれぬうちに、
ワタシが忘れぬうちに、
書いときましょう。
(シメもシュークリームかい!って気もしますが
トシもトシですし、忘れかねんので。)



その、マシェリさんのパイシューが、こちらです!


202312_マシェリパイシュー.jpg

もう、普通のシュークリームにはあり得ない
皮に、角(笑)

202312_マシェリパイシュー_1.jpg

生地がふにゃふにゃしてないので、
箱に立てて入れても、崩れない頑丈さ!

今回撮影のために初めて切って断面を見てみました。

202312_マシェリパイシュー_2.jpg

あ~、こんなにクリームを奮発してくれて!

ありがとう、マシェリさん。


このパイシュー。

かじるとザクッ、ザクッ。

そして、ぽってりしたクリームがすぐに出てきます。

パイ生地も、ハラハラと儚げに落ちるのじゃなく、
バラバラと、常緑樹の葉のように
厚みのある音をたてて落ちていきます。

生地の小麦の味が、ハード系のパンのように
しっかりして、
バターの風味もくどさがなくて、
クリームも、優しいのに
生地に負けていない。

もう、書いててまた食べたい。
大好きなシュークリームなのです。

あいにく、遠い~。
北九州は、戸畑です。

小倉方面に買い物とか、
何か用事でもない限り、
なかなか買いに行けないのです。

その私的「ついで」候補になるのが
北九州市立美術館。

マシェリさんから10分強行った所にある、
森の中の、高台にある本館の方のお話です。

設計は、大分が誇る
有名建築家、磯崎新氏。


北九州で育った私は、特別企画展のあるなしに拘わらず

その建物と雰囲気に触れたくて
よく訪れていました。


その美術館の駐車場から、アプローチに向かうとすぐ
見えてくる一本の木があります。

北九州美術館の木

見上げると、特徴のある
双眼鏡のような外観の美術館の
すぐ入り口。

北九州美術館の木

この木は、四季桜。

北九州美術館の木

春と秋に花を咲かせます。

もう秋というにも遅い時期の写真ですが、
控えめな花が
枝先に少しだけ残っていました。

北九州美術館の木


何十年(!)も前から、ここにこの木があるのを見ていますが、

ソメイヨシノのように大きくならないのか

あまり大きさが変わらない。


枝ぶりも低く、ちょうど両手を広げたようになっているので

その内側に入っていくと
ハグされているような感じになる。

北九州美術館の木

人から触れられるのは少々苦手な私ですが、

この木の中にいるのは、とても心地が良い。

かわいがってくれた祖母に会いに来るような。

そんな【会いたい木】なのです。


Welcomeな木の歓迎を受けて、
急こう配過ぎる外付けのエスカレーターを上がっていくと
館内の正面ロビーに着きます。

特別企画展が行われていると、人も多く
ゆっくりするにはイマイチ。

何もない時ほど、美術館自体を満喫できる!


2階のカフェだって、混んでなければ
自由に、自分の好きな席に座れます。

北九州美術館のカフェ

いつ行っても、森の景色が素敵な場所ですが、
個人的には、紅葉の時期が一番。

色鮮やかで
キラキラきれいでうれしくなる!

北九州美術館のカフェ

そして、楽しみのスコーンセットをいただくのです。
(写真はスコーンとキッシュのセット。本当は、もう少し安いとうれしい・・・。場所代かなぁ。)


美術館には、さらにこんな場所も。

北九州美術館

B1のアネックスに続く通路。

北九州美術館

向こうには、北九州の街並みが見えます。

このガラス張りの反対側からは
森をおりて吹く風が清々しく

このまっすぐな渡り廊下を歩いていると、
なんだか不思議と
神聖な気持ちになるのです。

アネックスといわれる別館の扉を開くと
表れるのがこちら。

北九州美術館

アトリウムです。

北九州美術館

以前は、こちらに水がはっていて
キラキラ天井から降り注ぐ光に、

水面に映り込んだ柱が
本当に美しくて!

メンテナンスの都合なのか、
ここ数年は水がない・・・。

北九州美術館

水のあるとないとじゃ、えらい差なのですが
何か事情があるのでしょう。

それでも、人がいないと
本当にここは静か。

北九州美術館

とても落ち着くので、

つらい時、心を鎮めたい時
ふと立ち寄って

どんなに慰めてもらったか分かりません。


シュークリームに始まり、美術館。

皆さんにも、きっと大事な
場所があるのではないかと思います。


また食べたい、あの味。
また行きたい、あの場所。

また会いたい、何かや誰か。


小さな楽しみは、人をどんなに支えてくれるか分かりません。


新しい年が

また何かの

新しい【小さな楽しみ】に出会う一年とますように。

どんな人も、【小さな楽しみ】を奪われない
穏やかな日常を取り戻せますように。


1年間お付き合いいただき、ありがとうございました。

どうぞ、よいお年を。


おススメでお腹いっぱいになる前に

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


例えば、会社のお昼休み。

時間は1時間。使えるお金は、1000円とします。

さて、どこで何を食べましょうか。

すると、情報通の同僚がやってきて
「知り合いがお店しているので、行ってみないか」と声をかけられる。

どうも、苦労して出店した、こだわりのお店らしい。

断る理由もなかったので、行ってみる。

味は、不味くはないんだけど
特に好きでもない。

まぁ、たまにはいいかな。こんな日も。

ところが、ちょくちょく、ちょくちょく、
その同僚から「おススメ」される。

おススメなので行かないか、と。

もちろん好意で言ってくれているのでありがたい反面、
正直、自分好みのアタリも少なければ

断るのも悪いと思いつつも、

昼休みが始まるのが、あまり楽しくなくなる。


変な例えですが、なぜこんな気持ちになるのか。

もちろん、おススメがアタリばかりなら
嬉しいですし、楽しい。

それでも、ちょくちょくアタリでもないと
私などは、性格が悪いので
ちょっとモヤモヤします。

なぜか。
おそらく、【自分の意志で、選ぶ自由】がないからです。


昼休みの1時間という【時間】も、
1000円という【予算】も、
本来は、どう使おうが私の自由です。

そこに誰かのおススメばかりに、
なんとなく付き合って

結果として満足もしていない。

「どこに行こうかな」
「どう過ごそうかな」

それを考える、迷う楽しさも
きっとあるからです。


今、広告やSNSで、誰かのおススメが溢れます。

これは絶対間違いない!

使って損はない!

これは知っとくべき!
(損得、べき!ばかりで疲れるのです。過保護じゃあるまいし、自分でやってみないと、実際は分からんわーい。)


誰かのおススメが、必ずしも万人に当てはまるわけじゃない。

誰かのおススメが、ハズレだと思うのは

その誰かとワタシは
感覚も大事にしていることも違う
全く、別の人間だからでしょう。

違うんだから、絶対の良いも悪いもないのです。


以前、故日野原重明先生の『いのちのおはなし』という絵本を読みました。

先生は、その中で
その人が死ぬまでに使える時間を、いのちというのだと語ります。


昼休みの例は極端でも、

ワタシの、誰かの、使えるはずだった時間を命というなら

さて、どう過ごしましょうか。

私は

使えるはずだった時間を

使えるはずだったお金を

誰かのおススメに従って決めてしまうのは
うれしくない。

迷いながらも、考えたい。


おススメされても、口コミレビューが高くても

実際に、判断するのは自分なら

実際に、自分でどう思うか感じるしかない。

おススメでお腹いっぱいになりそうな世の中、
最後に頼れるのは、自分の感覚かも知れない。


というわけで、おススメはともかく

自分の感覚で、どう思うか見に来ませんか?

構造見学会、今週末です。(←宣伝か?)

どうでもいい感じの関連?記事→『構造見学会とシュークリーム』

家族だからこそ、

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


生まれつき、親を嫌って生まれてくる赤ん坊はいない。

それこそ、物心つくまでは

なぜこれほどまでに未熟で、ダメな親なのに

そこまで好いて、必要としてくれるのか

不思議なくらい、子どもは親を望んでくれる

親になるまでは、

無償の愛というものは

親から子に与えるものだとばかり思い込んでいた。

実際は、大人になり、親になると、

子への無償の愛以上に(それどころか!)

人の目、世間の目を気にする弱い私がいて

その分厚い雲の層に、びっくりする。

「言うこと聞かんと、知らんよ」と脅すことや

一見褒めて育てているように見えて、

ある種の方向に誘導しようとすることも、

実は、子どものためと言いながら

本当は「親としてちゃんとしている」ことを気にしているにすぎず

本当は、子どものためではなく

自分の見栄のためだったりするのかもしれない。

「ちゃんとした」親だと思われたくて、
今日も言うのだ、「ちゃんとしなさい」って。

それなのに、子どもは好いてくれる。

例え、「ちゃんとした」誰にでも褒められる親でなくても。

むしろ、子どもから無償の愛を受けていたのだ。

・・・何ということだろう!


縁あって、親になり、

実家以外に「家族」ができ、思うことがある。

「家族」だからこそ、やってはいけないことがある。

それは、特に力関係がでやすい

親と子の間で

親の価値観で、子どもの大事な領域を台無しにすることだ。

「漫画ばかり読んで!」と勝手にものを捨てたり、は

例え良かれと思っても、やりすぎで

心の奥深く、表には見えないところに、

あれだけ親を信じて、好いてくれた、あの子どもの心に

消えない傷をつけてしまう。

関係が良好な時、上手くやるのは難しくはない。

考えが違った時、なにか問題が出た時ほど、

少しでも力のあるものほど、

よほど気を付けないといけない。

親と子でもそうだし、

先生と生徒でもそうだし、

プロと素人でもそういえる。

「説得」といいながら、「うん」と言わざるを得ない状況にしてないかは
細心の注意を払わないといけない

「説得」が、言葉にならないものを飲み込ませて

本当に「納得」して、腑に落ちているとは限らない。

飲み込んだ思いは、小さなチリとなって
心のどこかに積もって

いつか怒りになる。

あれだけ「正しさ」を押し付けられて

「言うことを聞かないと知らない」と脅され

いざ、それが違った時に。


生まれつき、親を嫌って生まれてくる赤ん坊はいない。


家族だからこそ、

家族のように思うからこそ、

そこには、どんな小さな相手に対しても

守るスタンスがあるように思う。


「説得」や「指導」で、意のままにしていないか。

小さなその子ども(もしくは生徒、素人)にも、

大人(もしくは先生、プロ)以上に大きなものがあることを

忘れずにいこうと思います。


誰が何と言おうが、大切な、小さな「誰か」のために

つまらない見栄を蹴とばせる、「大きな人」になれますように!

小さな息子
息子たちよ、色々教えてくれて、ありがとう。とても学ぶことが多い、二十年前後でした。

※次回からは、0のつく日に記事を書こうと思います。10日,20日,30日です。
よろしければ、お付き合いくださいませ。

雲間から見えるもの

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


お弁当を作らなくて良い朝、歩くようにしています。

ダイエットではありません(今さらですし)。

たまには歩かないと、
年々、初詣で神社の階段を上るたび、
寄る年波と、体力の衰えを実感するはめになるからです。

何より、ちょとした気分転換になる!

自分の足で歩いて、風や空気の匂い、
季節の移り変わりが実感できることは、

自分の中の、生き物としての何かが、
悦ぶ感じがします。

きっと私は、散歩中の犬のような表情をしているに違いない。

お外はいいなぁ~!という顔です。

とは言え、肌寒くなってくると
気合がいる。

お布団の温かさに負けそうになる。

それでも、一歩外にでれば、これ!

koubou_202310.jpg

こんなご褒美が待っています。キレ~‼

こんなくっきりした線を見ていたら、
よくイラストで描かれる太陽の線って、

光芒イラスト.jpg

まさしく、これのこと。

実は名前もあって、光芒とか薄明光線とかいうそうです。

太陽のイラストや、日章旗などにも使われます。

太陽の絵というと、
ついつい記号のように
こんな線を書いてしまうけれど

実際には、晴天の真っ青な空では、
光の筋は見えにくく

雲があるから、見える筋だとも言えます。

天使の梯子とも呼ばれる、この光芒。

暗雲あってこその、光だというのは
何だか、励まされるような
ありがたい気持ちになります。

暗闇だから、小さな光にも気が付く。

夜だから、星の光にも気が付く。

どんな闇にも
どんな夜にも

いずれ光がさす朝がくることは

本当にありがたいことです。

早起きして、光芒を目にして
なんだか思い出す、『朝ごはんマーチ』の歌。

当然、歩きながら歌いました。

NHKのおかあさんといっしょで、息子より私のツボにハマった歌です。
あきひろお兄さんと、りょうこお姉さんの代!
おふたりの歌が、大好きでした!(私の方が、息子より歌える・・・。『バンジョーのジョー』とか。)

中の人

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


実は、あるご当地キャラクターの「中の人」になったことがあります。

PTAの、九州を挙げての大イベントで、
盛り上げるために「誰か入らないか」というのを

「やるやる!やりたい!」と
前のめりで引き受けた経緯があります。


PTAは苦手なので、もうご勘弁願いたいのですが、

唯一残念なのが
もう「中の人」になれないこと。

あれは、別次元の体験でした。


「中の人」になるには、誰かに手助けしてもらって
着替えないといけません。

下の衣装を履いて、
上半身の中に、えいやっと入って
重い頭や、備品などを着けてもらいます。

動くのも一苦労で
誰かにサポートしてもらわないといけません。

普段あまり汗をかかない質なのですが、
ジンワリ蒸される感じ。

寒い時期に脱ぐと、湯気がでそうな勢い。

実はラクなわけでもない。

それでも楽しい記憶として残っているには
理由がありました。


イベント当日、おおかたの準備も終え、

いよいよ「中の人」になって、来場者を迎える時間です。


会場のロビーで、手を振ったり、
「いらっしゃい」感いっぱいに
ゼスチャーで歓迎していると、

九州各地から集まった来場者さん達が
私を見て、嬉しそうに手を振ってくれます。

笑顔で、握手をしに来てくれたり、
写真を一緒に撮ってくれたりします。

・・・・・なんと。
これはもはや、スターじゃないですか!

「中身は、同じか年上のオバちゃんなんやで~」と
内心思っていても

50年近いわが人生の中で、これほど初対面の人に

もろ手を挙げて喜ばれるなんてことがあっただろうか。(うんにゃ、ない。)

「人気者の皮」は被っているものの、
それは人生初の、存在への喜びであったのです。


あ~、でも!
それはこれを被っているからなのです。

脱いで、素のオバちゃんである私を喜ぶのは、
猫のハチさんとゴマちゃんくらいでしょう。

これを被ってない限りは、こんな状況はあり得ないのです。


その時ふと思ったのは、「なりたい自分」や「ありたい自分」ということでした。


誰かがイイね!といってくれる「姿」や、

ステキ!と思われる「姿」を被っていれば

見ず知らずの人が評価してくれるのはSNSに似ています。


「中の人」と「ステキな姿」が差がないほど、
演じていても苦にはならない。


逆に、
評価してもらいたいばっかりに、
重すぎる「姿」を被れば、

疲弊して当たり前ともいえる。


それでも、「なりたい自分」「ありたい自分」を目指して
高みを目指し続ける生き方もあるでしょう。

誰かに羨望のまなざしで、一目おかれる人になることは

それが名声であれ、何であれ、

自分の存在意義への自信になるかもしれません。


でも、本当は
そんなもの被らなくても

嬉しそうにしてくれる誰かがいてくれたら。
なにも飾らなくても喜んでくれる誰かがいてくれたら。

それが一番なのではないでしょうか。


赤ちゃんや小さい子が、にこにこ笑うと
こちらまで嬉しく、楽しい気持ちになるように、

素のままの自分でいても、
嬉しそうにしてくれる誰かがいれば

重い皮を脱いで、楽になれます。


本当は、安心したいだけなんだと思います。

中の人の私のまま、

この世界にいていいんだ。
存在していいんだという、

絶対的な安心感がほしいだけなんだと思います。



それがまだ見つからなくて、

今日も私は虎の威を借るように

時々「中の人」で体験したことを思い出すのです。


「なりたい自分」「ありたい自分」を背負って
苦しそうな知人もいたりして、

「中の人」になってみたことは、
色々考えさせられる体験でした。


「ありたい自分」の着ぐるみを被ったあなたじゃなくて、

私は本当の「中身」のあなたの声がききたいのだよ。

かおなし_1
その逆のパターンが、この人か。その件については、またいつか。

根っこのつながり。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん

以前、『美建築ぶらり。竹田ひとり旅 その5という記事を書きました。
投稿時期により、各ページが離れてしまったので、<その5>を開いて、その1から読んでいただくと便利です。

その時に、B・B・C長湯さんの図書館にあったチェンバロのことを
少しだけ紹介させてもらいました。

202304_BBC長湯図書館内

関連記事→『美建築ぶらり。竹田ひとり旅 その4

チェンバロの製作者は、故・松本公博(こうはく)氏。
ヨーロッパの古楽器を、日本の木で作りたくて
山香に移住し、カテリーナ古楽器研究所をひらいたとのこと。

その後、気になって少し調べてみました。
(日本の木で作りたくて・・・ってあたりが、もうツボで。)

そしたら、出てくるわ、出てくるわ!もう、イモヅル式。

「類は友を呼ぶ」ではないけれど、不思議な、
世界観のつながりのようなもの。

それを今回、自分なりにお伝えしていければと思います。

良ければ、お付き合いくださいませ。


とにかく、本当に山香にそんな場所があるのか?

ググってみると、確かにあるんです。カテリーナ古楽器研究所

しかも、HPの雰囲気から、本当に素敵。

知らないだけで、本当に
こんな場所が(しかも、意外と近くに)あったのねぇ~。

もくせい工舎の家がお好きな方は、こんな雰囲気、お好きじゃないかなぁ。

オタマジャクシにも全く疎い私は、音楽のおの字も分からない。

それでも、楽器を作りながら
自然の恵みに敬意を払い、大事に「音」として
受け継いでいこうとしておられるのが
伝わってくるのです。

どんな音楽なのか、CDのようなものが売っているのか
気になるところ。

検索すると出てきたのは、
「カテリーナ古楽器合奏団」と、なぜか『宮崎 駿の雑想ノートⅤ』。

?????

宮崎駿って、あの宮崎駿??(←呼び捨てだけど? )
見ると、ちゃんと演奏がカテリーナ古楽器研究所ならぬ
カテリーナ古楽合奏団。

?????

どう違うの??

研究所は、研究したり、楽器をつくったり?
合奏団は、演奏するときの名前?

私がB・B・C長湯さんで見たチェンバロの製作者は故・松本公博さん。
かたや、合奏団を結成したのは松本雅隆(がりゅう)さん。

実は、ご兄弟で
雅隆さんは、公博さんの弟さんとのこと。

合奏団は、東京立川のロバハウスを拠点に音楽活動をしているようで
「ロバの音楽座」としても活躍されているようです。

・・・というか、もうロバハウスって名前がいい。

そのロバハウス、建物もすごかった!

設計は、村山雄一(たけかず)さん。

なんでもこの方、建築模型を粘土で作るらしい。

雅隆さんが「洞窟や胎内のイメージで」と伝え、
村山雄一さんの手のひらから生まれた
ロバハウスとロバノコハウス。

~~~~~~~~~~~~~~~~‼‼‼

何という愛らしさ!

村山雄一さんは、シュタイナー建築で有名な方らしく、
子ども達のための幼稚園なども手掛けられています。

そのご縁でなのか、公演先で
松本雅隆さんの目に留まったよう。

その幼稚園の建て方も、本当に素敵。


葛飾 東江幼稚園 園舎

子ども達に、極端な刺激を与えないよう、
安心して過ごせるよう、
五感を通して、やわらかな印象の優しい建物となるよう

心をつくしているのが、とてもよく分かります。
(・・・というか、こんな建物に通わせたかった!)

その建築作品も、素敵なものばかり。
ただ、(個人邸や幼稚園に、ずかずか入れないので)遠慮なく見に行けるのはトーベヤンソンあけぼの子どもの森公園や、
気流舎などでしょうか。

それでも、埼玉・・・。それでも、世田谷・・・。
遠い~・・・。
(都市圏に縁がないと、どうやって行くのが賢いのか
それすらピンとこない・・・。)



村山作品のように曲線だらけには、なかなか難しいかもですが

もくせい工舎のお家も、甘木土の壁は
胎内のような、やさしい空間ですよ。

甘木土を用いた漆喰壁の室内

甘木土を用いた漆喰壁

良かったらご検討ください。

・・・それにしても、です。

松本公博さんの手づくりの古楽器、

その古楽器をつかった演奏をするカテリーナ古楽器合奏団、

古楽器や空想楽器で、子ども達に音楽の夢を運ぶロバの音楽座、

粘土をつかって、手のひらから生まれたような
村山雄一さん設計のロバハウス、

そして藤森照信さんの建築・・・。


どこか人の手仕事を感じるような、

土のにおいがするような、

そういった方々と、不思議とセットで?
一緒に名前が出てくる宮崎駿さん。


竹田に美建築を見に行って、

松本公博さんのチェンバロに出会ったり。

そこから、ロバの音楽座や村山雄一さんの作品を知ったり・・・。

これも間接的ではあるけれど、何かのご縁なんでしょうか。


「有由有縁」

川端康成のその言葉を、座右の銘にしているのは、元竹田市長の首藤勝次さん。
(B・B・C長湯を運営する大丸旅館の5代目経営者であり、藤森照信さんにラムネ温泉の建物を依頼した観光カリスマ)

出会う縁、その由縁が違えば

もしかしたら、村山雄一さんの手によるラムネ温泉館なんていうのも
あったのかもしれない。

それも見てみたかったかな~とも思いますが、
これも縁あってのこと。


それでも、藤森照信さんの作品を気に入った方なら
きっと、冷たい無機質な建物にはしなかったのではないかと
勝手に想像しています。


生き物としての人間と、【自然】の根本的な
つながりのようなもの。

それを大事にした、生き方、暮らし方、つくり方。


人の手の仕事を感じる、土の感触を感じる建物は

目には見えないけれど

きっと
人間の根っこにとって、大事な仕事をしているに違いない。


色々なご縁のつながりを垣間見て、
そう実感しました。

例え、ちょっとした小さな旅でも、
そのもたらすものは大きい。

狭くなりがちな視野を
広げてくれるような気がします。

それを言い訳に、また旅に出て
皆さんにご報告出来たらと思います。


永家夫妻の掘り出し方

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


いきなり変なタイトルですが・・・。

永家さんたち(の、書いた記事)が埋もれておるのです。

今回は、永家夫妻(の、書いた記事)掘り出し大作戦。
肝心かなめの記事たちに光を当てねば!というお話です。

ところで、
(今さらですが)「ブログとは、なんぞや?」

改めて調べると、WebにLogする。縮めて、blog。

ウェブページ(Web)上に載せる、出来事などの時系列の記録(Log)のようです。

個人だと、その人の日常や思想といったものを時系列で書いたり。

企業だと、その目的として

■ (専門)知識の共有→信頼性向上!
■ 顧客との関連強化→ファンを増やす!
■ SEO効果→検索上位にする!
■ 企業イメージの向上→どんな会社か印象づける!
■ マーケティング効果→売上につなげる!

・・・でしょうか。

・・・こう書くと、うさんくさいでしょ?

なんか、うまいこと騙されそうな感じがして、
身構えるのは私だけでしょうか?

でも、よくよく考えると、お客側にとっても大事なこと。

■ ちゃんと、プロとして信頼できるか。
■ 人として信頼できるか。
■ そもそも検索して上位に来ないと、(どんなに良くても)知ることができない。
■ どんな感じの会社か分かる。
■ これなら、見てみたい。なんなら買いたい。そのきっかけになる。

と、いうことだと思います。(ざっくり言えば・・・)


さて、そのブログですが
なかなか、永家さん夫婦が書く時間がない。
(家づくりで走り回ってます。優先順位で、ブログ書きが一番にならないの意。)

こうして、私も記事を書かせてもらっていますが、

実際の所、永家さんたちがどんな感じの人か分からないと意味がない。
(実際にお会いするのは、ブログを書いてる私たちではないし、
「良い人なんです~」と言われてそのまま鵜呑みにもしないでしょうから。)

ブログから、永家さん夫妻の
本来の人となりや
目線・考え方が、埋もれている。

これは、マズい。とても良い状態とは言えない。


・・・と、申しますのも
私自身が、どこで建てるか迷っていた時、

もくせい工舎のブログを見て、「ここなら大丈夫かも?」と
(半分)判断したからでした。


私は、

広告を見て気になって

サイトでどんな会社か調べて

他と比較して

実際に見学会に行って、決めました。


サイトを見た時に、事細かに「自然素材」について書いてある。

その熱量が、他の「自然素材の家」を謳う会社と違って見えたこと。

あと、何より、永家さん夫婦のブログ記事の「目線」「見ていること」。

これは、とりあえず「自然素材って言っとけば売れるかも?」の工務店ではない。
本当に自然に興味のある人なのかな、と思ったからでした。

「自然素材」を謳いながら、「自然」や「自然なこと」に関心がない工務店だってある。

だから、決して
そんな「とりあえず的」自然素材の家じゃないのに、

当のご本人たちが、どんな目線・考え方を持っているか

今のブログから、分かりにくくなってるのは、
ちょっと残念なのです。

だから、ここで改めて、
永家さん達ってこんな感じ。を掘り出したい。

スマホで見ていただいている方が多いかと思いますので、
掘り出し方?をお伝えします。(分かってるよ~って方は、すっ飛ばしてくださいませ。)


もくせい工舎のウェブサイトを開いてもらうと、

こんな感じの画面になるかと思います。

ブログ_ホーム画面

(そりゃもう、かわいそうなくらい?)下の方にブログ一覧が出てきます。

ブログ_ホーム画面下

ブログ記事画面

ブログ記事画面下

ブログサイトマップ画面

■代表:永家正光さん→owner

■相方:永家隆美さん→staff

ちなみにdiaryの割とはじめの方は、隆美さんです。

staff2の 八面山の記事からは、私こと「ことりの母さん」が書かせていただいています。

私の筆が遅すぎて、SEO的にアウトなので
staff3さんも記事を書いてくださっています。(ありがとうございます。)


ブログの元々の意味が、日常の記録なのだとしたら、

工事現場の記録とか、
地鎮祭とか、
各種イベント等を載せるのが、正道なのかもしれない。

ただ、見る側からしたら
なんだか似たよ~うな、区別のつかない
どこかの工事報告や

誰かのイベント等を

そう何度も見る必要はない気もする。
(とは言え、現場写真などは
目が肥えてくると?
他社の構造と、もくせい工舎の構造の違いが分かったりする・・・。)

お客さんが、本当に知りたいのは

プロとして信用できるか
人として信用できるか
任せても大丈夫か

ではないでしょうか。

その核心を突くのが、ブログであると思うのです。

メリット、デメリットも、もちろん大事だけど
損得以上に
家づくりは、ヒト対ヒト。

どんなにメリットが多くても
相性の良し悪しだってあります。

そればかりは、誰にもわからない。
(条件と相性が別なのは、結婚とか就職でも言えるように。)


私の知っていることが、世の中の全てじゃない。
知らないことも多い。

それでも、もし言えるとすれば、

大分県北近隣で、
産直的な方法で
本当に、本当に、自然素材にこだわった家をつくるところを

私は、もくせい工舎以外知らない。



良かったら、埋もれちゃってますけど、
永家さんたちが書いた
過去の記事、読んでみてくださいませ。

こんな感じ、嫌いじゃないな~と思ったら
幸いです。

もくせい工舎かどうかはともかく、

皆さまに、どうぞ良いご縁がありますように!


■代表:永家正光さん→owner
■相方:永家隆美さん→staff

今はまだ夢の夢でも

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


(書いたものが地層に埋もれ気味な、当ブログのシステム的なことや、私の年齢的なこと等もあり、
過去に書いた記事と一部重複することがあります。その点、ご容赦いただければ嬉しいです。
それでも、個人的に大切だと思うことは、今後も繰り返し取り上げると思います。
よろしくお願いいたします。さて、本編です↓)

「家を建てたいな」と漠然と思っていても、
今はまだ夢の夢だなと思う時期ってあると思うんです。

それは経済的な理由だったり、
なかなかピンとくるものがない、
諸事情でそれが簡単でない、などなど。
(ちなみに私は、最初に思ってから10年かかりました・・・。)

良い風が吹かなければ、飛び立てない。
飛び立つ気にならないのは、自然なことです。

そういった二進も三進も(にっちもさっちも)いかない時
どうするか。

選べるのは、その時の「態度と行動」くらいかもしれません。

(ちなみに二進も三進もは、そろばん用語が元らしく。
2÷2,3÷3のように、割り切れない状態のことみたいです。)


飛び立てないこと、動けないことを嘆いて

「できないこと」ばかりに夢中になると、

いつの間にか
本当に動けなくなってしまう。

繰り返し思うことで
その考えやイメージが固定されて

いつの間にか
「何をやっても、うまくいかない」
「どうせ、できない」なんて

つまらないレッテルをわが身に貼ることになりかねない。
(実はこの自己暗示が一番怖い。)

今は、できないだけかもしれないし、

例え、それが叶わなくても
叶わないから不幸になるわけでもなんでもない。

叶えばそれが日常になります。
叶えば、失う心配もあります。

叶わないことや、持たないことが、
自由や、身軽さだとも言えます。

(和訳で↓)
幸せな人生、
幸せな家、
○○ホ~ム♪

みたいに、何かを手に入れさえすればOKとはいかない。

夢のマイホームを手に入れたら、
続くのは現実的な日常です。

だから、叶う叶わないより、
少しでも「今」ご機嫌でいることの方が、よっぽどハッピーライフを満喫できます。

ただ、夢のまた夢の、夢の間にいる【今】こそ、できることがある。

(以下、あくまで私個人の考えとしてです。)
■住みたい地域のハザードマップを確認しておく

地滑りや浸水の心配がないか。
大雨の時など、(今は住んでいなくても)付近を流れる河川情報も調べてみる。

色々な地域の防災情報を頭に入れておくと、
いざここ!という土地が見つかった時、
決断が的確になります。

お子さまがいらっしゃるときは、通学路も大事です。

■住みたい土地のゴミ集積場、共有スペースがきれいか見ておく

ゴミの出し方って、配慮なので。共有スペースがきれいかも、わりとポイントになります。

田舎ほど、近隣との関りは濃いめになります。
近所の掃除や出事なども多々ありますが、
みんなが使う場所をきれいにしているかで
モラルが垣間見えます。

それと、私は青々した風景が大好きなのですが、
田んぼに囲まれると、時期により消毒や、刈り入れ後の焼き畑等あります。

田んぼの青々した匂いには、そういったこともセットなんだと
後で自覚しました・・・。
(これでも、半都会育ちなので、全く考えず。住んだ後、そりゃそうだ!と気づく。)

■家のここだけは外せないポイントを洗い出しておく。無理な場合の代替案も考えておく

■木や花が好きなら、何を植えるか考えておく

これ、私自身の反省なのですが
太陽に向かって咲く花を、敷地の南側に植えたら
花の後ろ頭ばかり見る羽目になりました。
(花が咲いた後で気が付いた・・・。)

敷地の北側=影と思い込んでいたのですが、
建物などの影が邪魔しなければ、植物に陽は当たります。
(考えれば当たり前なのに、花が咲いた後で気が付いた・・・。)

関連記事はこちら→ 「まずは、おちつけ。」

もし、家をまた建てる機会でもあれば(すごい低確率ですが。)
キッチンに北向きの窓をつけて
花や木々を愛でながら洗い物をしたいです。(すごい低確率ですが。)

もくせい工舎で庭をてがけるのは、日田の実意園さん。

わが家の庭をお願いするときに、当時調べていた範囲で
家のこの辺に、こんな樹木・・・と具体的に
図で書いて渡しました。

当時は今よりも更に知識がなかったので、
今なら植えない木もあるのですが、
(シマトネリコとか、常緑のヤマボウシとか・・・。)

具体的に、樹木の種類を上げることで
親方のはっちゃんさんにイメージが伝わりやすかったみたいで、

わりと考えに近い木を選んでもらえたり、
ツリバナやコマユミなんて当時は知らなかったのですが

気に入るのでは?と入れてもらえもしました。

家づくりもそうですが、こんな感じということを
伝えても、すべてが叶うことは多くないです。
(湯水のように予算があれば別です。私などは、空間や建物が好きすぎるので、
本当に理想通りにしようとすると、ガウディみたいになってしまう。永遠に終わらん、です。)

それでも、伝えることすら諦めると
施主側ではなく、施工する側の好みに近くなる。

イングリッシュガーデンのようにしたいのか
日本庭園っぽくしたいのか、
雑木林のように自然な庭にしたいのか。

具体的に考えておけば、その後も
自分たちで庭を育てていくときの指針になります。


そして何よりも

■たくさん、見比べておく

急がせる業者は、パスして、
とにかく見る目を鍛えておく。

これが肝心です。

家の質と値段のバランスはもちろん、
何か困った時に、頼れる感じか、
その余裕があるかも大事です。(時間的、精神的なことも含めて)


夢のまた夢と嘆くなかれ。

夢みれる【今】だから、妄想する自由も、
時間的な自由もあるのです。

具体的にイメージする【力】を養うことが大事です。

そうすれば、いざ話が進みだしても、
芯がぶれずにすみます。

家を建てても建てなくても
ハッピーライフにはなれます。


どう転んだとしても、

夢を描けるうちに、今できることは

何を大切に暮らしていきたいか

それを具体的に考えることです。

日々、何を大切に暮らしていくか。

その積み重ねが、生きるということなら、

家族と暮らす家は、その舞台でもあるということです。


もくせい工舎とご縁があるかはともかく、
家を建てるって一大事。

焦らす、でもアンテナは張っておきましょう!

どうぞ良いご縁がありますように!
応援しています!

そうそう!
近々構造見学会も開催されます。

大雨の影響で、一週間遅れとなりましたが、
良かったら♪

8/5・6 宇佐市構造見学会

あ!あと泥だんごもね!お子さまと遊びに来てください♪

8/20 光る泥だんご作りとしっくいの塗り壁体験

「ナントカ目線」で、ひとくくりは。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


かつてPTAで、その場の流れで
市の母親代表みたいな役をやったことがあります。

その折、よく聞いたのが
「母親(ママ)目線」とか「女性目線」という言葉。
天邪鬼な私は、少々苦手な言葉なのです。

いやいや、女性とか
母親だから言うてるんやないわ。

私は、私の考えとして、言うてるんや。

なんで変なカテゴリーでくくろうとするの?

思えば、「母親部」「女性部」なんて
どうして性で分けんといかんのか。
(まずそこから分からなかったんだから
本当に向いてなかったんです。PTA・・・。)

女性だから、母親だから
読み聞かせとか、食育の話でも別室でしてればいいわ
って扱いはとても疑問だったのです。
(圧倒的に男性が多かった各PTA会長の集まる理事会では
読み聞かせも食育も話にほぼ上がらない。
暗にそれは、女性の、母親の役目ってことなのかな?)

本当に良い話なら、読み聞かせだろうが
食育の話だろうが、
父親も、男性も一緒に聞いても良いはず。

目の前の子ども達を育てているのは「同じ」なのに
どうして「役割」で分けるのか。
どうして男女一緒に話さないのか
不思議でたまらなかったのです。

一緒に話すから、違う立場の
違う経験をした人の、
違う意見が聴ける。

違う視点(目線)でものを見れる。

それが相手の立場になる。
思いやれるきっかけになるんだと思います。
(完璧でなくても、ささやかでも。)


ナントカ目線って、実はそういうカテゴリーで分けるものじゃなくて
個人の経験に基づくものなんじゃないだろうか。

主婦目線だって、いっさい家事をやらない人には
わからない。
(例えば、超便利な家電が、絶望的に手入れがしにくい時。
これ設計した人、手入れのことまで考えなかったんかな~と思うので。)

台所という場所一つとっても
どうあってほしいかは
人それぞれ違う。

ひな形におしこめて
想像でひとくくりにはできない。

家族と話しながらが好きな人は対面を望むかもしれないし
キッチン独立型を望む人もいるかもしれない。
(私なんぞは、家族がのんびりしてる中、
広くない台所で、一人黙々と皿洗ってると逃げ出したくなるのです。

次、家を建てることでもあれば、完全独立型にして
音楽をかけながら、庭の緑が見えるとか、
気がまぎれる台所にすると思う。)

母親目線だって、母親にならないと分からない。

これに関してはかなりデリケートですが
子どもを産むということは、ホルモンの関係や状況、個人差もかなりあって
頭で考える以上に、理想通りいかないこともある。

母親になった瞬間に、誰でも聖母になるわけではない。
決してきれいごとじゃない。

それが身に染みて分かったのは
やはり、私なりに経験してきたからです。

同じように言えば
お客様目線とか、患者目線とか、なんでもそうかもしれない。

同じような立場に立って、
恐らく「困った」経験がないと
痛みには添えない。

同じような目線。
同じような考え。
同じような意見。

そこに多様性はないし、
そこから生まれるものにも
多様性はなくなる。

似たようなものばかりできてしまう。
人は、それぞれ違うのに。

違った目線。
違った考え。
違う意見。

多様性を認める社会とよく聞くけれど、

それは
「わたし」を認めてもらうだけでなく
「他者」も私が認める社会のこと。

だから、きっとそこで起こる多少の違和感や
慣れない感じを排除しないでおく

その度量が、「わたし」にも求められる社会。

ひとくくりにできたら、簡単なのに
そういうわけにはいかない。
ままならないことも多々ある社会だと思う。

見方を変えれば、
ままならないということは、
「わがまま」になっていないこと。

独りよがりになっていないこと。

それが自然であり、多様性なんでしょうか。

自然界も、多様性が失われれば
バランスを失う。

人間も、自然の一部なんだから
ひとくくり、みんな一緒の考えなんて
不自然だと思うんです。

つまり何がいいたいかというと

皆がいいね!って言ってるから!より
自分自身が、自分の目線でどう思うか、が大事!だということです。

そして、それぞれの「目線」を大事にしたら
生まれるものにも多様性が出てくる。

それを感じるかどうかも大事だと思います。

そうそう、
ありがたいことに
完成見学会が、2軒も
迫っております。

よかったら見に来ませんか?
(結局、宣伝なんか~い。ですが。)

口コミの百聞より、信じるべきは
「わたし」の一見ですよ。

どうぞ、実際に木の家を見に来てください。

実際にお金払うのも
実際に住むのも
「わたし」たちなんだから

「わたし」目線で、どうしたいかが
大事だと思います。

興味があれば、ぜひ↓

6/17・18 完成見学会 in 宇佐市
6/24・25 完成見学会 in 中津市

木の家でお待ちしています♪

広告の世の中だけど

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


コンポストのことを書くつもりでしたが
またの機会に。

先日見に行った、
大分県立美術館【イメージの力 河北秀也のiichiko design】のことを少し書きたいと思います。

慌てて書いている理由が
開催が3/29までだから。
つまり、明日で終わりなのです。
(だからといって、誰かが見に行くとも思えませんが一応)

昔から、ちょっと渋いCMが好きだった私。

「ニッセイのおばちゃん 自転車で~♪」のCMを
幼心に渋くてかっこいいと思っていました。

そんな幼少期から年寄り好みというか
渋い、郷愁を誘うようなCMが好きだった私に

強烈なインパクトを残したのが
いいちこのCMでした。

ビリーバンバンの優しい歌声、
異国の夢のような風景、
キャッチフレーズのセンスの良さ。

焼酎は飲まないのに、CMに酔いしれてしまう
以前から大好きな世界観でした。

展覧会は写真撮影可能だったのですが
ブログに載せて良いか確認しなかったので
今回は写真はなしでご勘弁ください。

取り上げたいポスターは
「いいちこ ポスター 広告の世の中だけど」で検索すれば
あ~、このことかと分かっていただけるかと思います。

展覧会の、わりと最初の方でお目見えするポスター。


「広告の世の中だけど
噂で飲まれる酒・・・・・・・」と
コピーが続きます。

1984年、最初に出されたものだとか。
今から39年前ですね。

その当時から「広告の世の中」で
紙やテレビ、ラジオといった媒体から

今はSNS中心に
いかにネット上で上位に上がるかの
「広告の世の中」だと思います。

私があのキャッチコピーに惹かれたのは、

本質は39年前も
そしてネット社会の今も
変わらないんじゃないかということです。

「広告の世の中」にあって
良さげなコピーが大量に溢れ
少々うんざりするのは私だけではないはずです。

今も昔も変わらない
ウソかホントか分からない「広告の世の中」で

噂で必要とされている商品がある。

それは、ステマまがいの口コミレビューとかではなく
実際に自分が手にして
実感として良いもの、

また買いたいと思うもの

それこそが良い商品の本質のような気がします。

そんなの理想だよといわれそうですが

「これ、なかなかいいんよ」といって勧められたものが
自分にピッタリだったときの嬉しさは
奇跡的ですらあるからです。

残念ながら、もくせい工舎の商品は家なので
焼酎のように気軽に試すことはできません。


一度買ってみるかというには
大きすぎる金額です。

もし計れるとすれば
もくせい工舎で建てた方が
人にも勧めるか

もしくはもう一度家を建てるとしても
同じようにもくせい工舎と思っていただけるか。

それだけかも知れません。

楽しく飲んで終わりの焼酎と違い、
家づくりは人対人でもあります。

よい家をつくる以上に
良い信頼関係なくしては

噂だけで広まることも難しい。

かといって、情報ばかりがあふれるこの世の中で
何をもって本質を見極めるか。

やはり、実際に自分で確かめる以外ないのかとも思います。

4/8,9の週末。
中津市にて構造見学会が開催されます。

実際に確かめる一つの機会かと思いますので
良かったらご家族でお越しください。

ネット広告の世の中だけど
(変なレビューじゃなく)口づてで選ばれる
もくせい工舎でありますように。

・・・と、願います。

広告の世の中だけど
「こんな家に住みたい」と思っていただければ、幸いです。

構造見学会について詳しくは→こちら♪

自分の手でやってみる【干物編】

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


庭の白モクレンが咲きました。

202315_ハクモクレン

わが家のモクレンはまだ小さいので
花に、私の鼻が届きます。

嗅いでみると、なんとも瑞々しくて
上品な良い匂い。

春がいよいよやってきました。

春は何かを始めるにも、良さそう。
暖かくなるって素晴らしい。
重い腰も、えいやっと上がりそうです。

その勢いに乗って
この頃、実験的に少しづつ
「自分の手で実際にやってみる」を増やしています。

半世紀ほど生きて、
あらためて自分があまりにも

自給率が低いこと
実体験として、何も知らないことに
驚いたからです。

口に入るものも
身に付けるものも
大半をお金を出して、買ってきます。

その中には、本当に大切なものもありますが
大半は、特に好きでもなんでもない
愛着も、思い入れもないもののような気がします。

服は特にそうで、

値段が高くなくて、
そんなに可笑しくなくて
この変な体形に
入りさえすればよい感じ。

生きて使える時間を、万能引換券である「お金」を稼ぐために使って

その結果買っているものに愛着がないなんて

なんていうことだろう。

とはいえ、めんどくさがりな上に不器用な私。

いきなり服は無理でも
簡単なものから
少しづつ「自分の手で」やってみることにしたのです。

簡単すぎて笑われそうですが。

干しシイタケって高いな~と思ったんで
生シイタケを干してみたり。

生シイタケ並べている時は
こんなに安く、たくさんの量を買ってきたんだから
やっぱり自分の手でやるのは
お得だ!と思っていたのですが

20230315_自分で干しシイタケ

干してみたら何のことはない。

市販の干しシイタケのボリュームは
適正のお値段くらいと知り。

しかも、売っているものの方が
乾燥もしっかりされていて、長持ちしそう。

とはいえ、これもやって見たからの感想(乾燥?)なのです。

干したものは他にも、サツマイモや大根、ショウガ。

ショウガはおろすより
乾燥させて粉にする方が簡単でした。

ショウガを薄くする際、繊維に沿って切ってしまったので
粉末後も、繊維だらけになってしまい、

そうか、最初から繊維を切るようにスライスすれば良かったのね~。

そう学んだことも新鮮でした。

やっぱり、実際にやってみて
失敗しないと分からない。

もっと若いうちにそれに気づけば良かったのですが

悔しいかな、気が付いたのが遅かった。
残念ながら、気が付いた【今現在】が一番若いのです。

少しずつ「自分の手でやってみる」お話。

次回は、【超手抜きコンポスト】です。

私にとって何がリスクか

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


いかにお金を増やすか。
それに精通した頭の良い人たちは言う。

資産価値にならないなら、家を持つことはリスクでしかないと。

私はお金儲けも苦手な上
そういった頭も悪いので、
そうなのかなぁ、と思う。

だからダメなんだともいえるけど
家=資産で、お金としての価値だけなのか
どうも腑に落ちないのです。

わが家はローンを
主人がそこそこの年齢になるまで払わねばばりません。

そのことを考えると
とても気が遠くなります。

家を建てる時
永家Tさんが、わが家の家計のあれこれを一緒に考えてくれて
納得してのGO!だったのですが
不安になる時がないわけではありません。

世の中どうなるか分からない。

一方で
「どうせウチには建てられない」

そう思ったまま、あのカビだらけのアパートで
ずっと暮らしていた場合も想像します。

もし、明日自分の命がなくなった時
どちらが残念だろう。

明日死んだら、
借金(ローン)は返せないままだけど、
大好きな木の家で暮らした記憶は残ります。

もし、アパートにいたまま死んだら
「私にはできなかったな
でも、借金はしなかったな」
・・・と手元の小銭を抱えて
思うのでしょうか。

「夢のマイホーム」「幸せの家づくり」

そんな言葉が並ぶ中

私は根暗なので、家を建てたから幸せになるとか
そんなわけではないかもな~と思います。

ただ、ひとつ言えるとすれば
私たちは
日々、何かを作り出している。

それは、毎日の献立や
家族に持たせるお弁当や、
たまにする玄関掃除、
誰かにかける言葉、
誰かに対する態度まで、

それらは日々作品といえます。

本当に支払いを無事終えるか不安をかかえたまま

木の家にすんでいますが

庭の石をとりだし、
小さな畑をつくり、
庭を育て、
小鳥を呼び

そうしてきた私たち家族の数年は

リスクでしかないのでしょうか。

人生は何を経験し
何を思い
どう行動したか

それがその人の豊かさだとしたら

自分はちっとも損をしなかった。
うまい事やった

そう言って
使いきれないほどの資産を残して

私は死にたいんだろうか。

手元に万能引換券(お金)を大量に残しても、
それを失う心配ばかりして

たいして何も経験せず
たいして何も生み出さない

その方が私にとっての
後悔になりかねないような気がします。


忙しい永家さんたちが
ブログを書く時間もなかなかなくて
私がこうして、代わりに
拙いことを書き連ねているのですが

きっと、何かのご縁あって
これを読まれている方がいるのかなと思います。

木が好きだったり
自然なものが好きだったり

そういった家づくりが気になってはいるけれど
どうしたものかと
思われている方かもしれません。

そういった方の参考になるかは分かりませんが

私にとって
木の家は理屈じゃないのです。

世の中完璧なものなどないし、
わが家にしても
ああすれば良かった、こうすれば良かったとか
多々ある。

でも、もう一度家を建てるにしても
やっぱり自然な家を建てると思います。

それは、木の家が
ただただ、好きだという理由です。

リスクとか何とか頭で考える以上に

生き物として
私には木の家が必要だったとしか言えない。

少なくとも
もし、今暮らしておられるお家が
新建材などを使ったよくあるお家やアパートなら

同じ材料でなく
違った素材で建てた家は
やっぱり見てみる方が良いと思います。

そこで劇的に何か感じれば
同じように、きっと自然な家が必要な方なのでしょう。

家を頭だけで考えるか
本能で考えるか。

両極端にはできないけれど

自然なものが好きな方には

木の家が好き

木の家ってやっぱりいいんじゃないかなと
そう思います。

一括で払える方を除き、多くはローンで家を購入します。
お金の不安は、まず永家Tさんにご相談ください。
事細かに、一緒に考えてくれます。
(本当に無理なら、まず審査に通りませんし。)
できるかどうかを、自分だけで考えるより
建てるにしろ、建てないにしろ
一歩進むはずです。

幸い、もくせい工舎は営業職がおりません。
つまり、しつこく勧誘する時間もスタッフもいないので
その点、ご安心を(*^^*)

見学会にいったら最後、ってこともありません。

お施主さんの中にも
最初の出会いから数年という方も
たくさんおられますので。

良かったら、一度木の家をご覧になってください。

見学会でも、OB様邸訪問でも良いと思います。
ぜひ♪

家にも自助力

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「10年に一度級」の寒波が、直撃した先週。

皆さま、大丈夫でしたか?

202301_雪と南天

1/24の午後から、急にあれよあれよと積もりだして
あっという間に雪景色。

ウチの長男の車は
遊園地のコーヒーカップの乗り物のように
ツーっと一回転したらしく
「相手がおらんで良かった~」と胸をなでおろしておりました。

202301_雪とハトヤバラ

その前に数日続いた暖かい日に、
春と勘違いしたハトヤバラも、かわいそうなことになっていました。


「夏涼しく、冬暖かい。」

住宅メーカーの広告によく出てくる言葉ですが
「ワンランク上の家づくり」同様、
何を基準にしてかはよく分かりません。

少なくともそれが
電力に頼っての涼しさ暖かさなら
何らかの理由で停電してしまえば
あまりアテにはできない気もします。

その点で、家の断熱性能が高いことは
いざという時「しのぐ」一助にはなりそうです。

もくせい工舎ではリフォームも行っていますが
その際、新築同様
壁には羊毛入りの断熱材を、しっかり敷き詰めます。

見た目だけでなく、「守る力」が増します。

家の快適を維持するのに、なるべく少ないエネルギーですむように

しのいだり、守ったりする家の【自助力】は
きっと大事になってくるのではないかと思います。

時々、大学時代に先生がおっしゃっていたことを
思い出します。
(なにせ数十年前なので、うろ覚えですが)

昔の庶民の家は
1つの部屋が
居間になったり、ダイニングになったり、
寝室になったり。

そこに、こたつや火鉢といった
局所暖房ひとつあれば
家族みんなが温かいわけでしょ?

今みたいに
それぞれが個室にこもって
それぞれの部屋全体を暖めようとしたら
いくらエネルギーがあっても足りない。

日本の暮らしには
局所暖房が一番理に適っていると思います。

・・・とかなんとか言っておられたような。

エアコンで空気全体をウンウン暖めようとするより
こたつの方がダイレクトに暖かい。

断熱性能の良い家で
あまりエネルギーを使わずにすんで
みんなでこたつにでも入りながら
まったりするのは

おさいふにも
環境にも

ついでに家内安全にも
良さそうであります。

いざという時も
そうでない時も

自分で自分を守る
自助力の高さは

家にとっても
人にとっても
御守りみたいなものかもしれません。

肉子ちゃん

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「今度、アニメ化されて映画になるよね?」と本好きの友だちに言われ、

「いや~、原作好きすぎて、あんまり見る気にならんのよ~」
そう答えていた私。

タイトルの"肉子ちゃん"と聞いて
すぐピンとくる方、こない方いらっしゃると思います。

そう。その好きすぎる原作とは
西加奈子さんの『漁港の肉子ちゃん』

文庫本の表紙が、クリムトのような
女性の裸の絵が載っているので
本を貸した友人は
子どもにギョッとされたらしいです。

ちょっと表紙はセクシーですが、
中身は西加奈子さんらしい
痛快さやテンポの良さ。

すごく笑えるのに、泣ける。
今のところ
私の一番好きな小説です。

主人公は、小学5年生の女の子・キクりん。
男にだまされてばかりの母、肉子ちゃんと
流れ着いた北の漁港に暮らしています。

太っていて不細工で、
とてつもなく明るい肉子ちゃん。

ちゃんとしてなきゃ。
他人に迷惑をかけないようにしなきゃ。

年頃になってそう意識しはじめたキクりんには
そんなお母さんがこの頃ちょっと恥ずかしい。

でも、本当は
「ちゃんとした」大人なんていないし、
「他人に迷惑をかけたことない」大人なんていない。

先般、荻上直子監督の『川っぺりムコリッタ』という映画について
書かせていただきました

西加奈子さんの本も
それぞれが「問題(のようなもの)」を抱えながらも
それが一向に解決していないのに

最後は、晴れ晴れとした気持ちになる。

そんな作品が多く、
肉子ちゃんも最後はとても温かい気持ちで
読了します。

私は特に、キクりんが入院した時の
サッサン(肉子ちゃんのバイト先の焼き肉屋の主人)とキクりんのやり取りや

キクりんが、肉子ちゃんに告げる言葉が
何回読んでも泣けてしかたがないのです。

しかも嬉し泣きで。

サッサンが言ってくれた言葉の温かさ。

キクりんの肉子ちゃんに対する思いは

何やかんや色々あっても
それでも「大好き!」そのもの。

生まれてきて
この世に存在していることに

何の条件もなく
OKを出されていること。

そのうれしさに、こちらまで温かくなるのです。

だから、アニメ化されて
見てガッカリしたくない。

・・・が、冒頭の言葉だったのです。

ところがですね、
これがしてやられました。

Amazonのプライムビデオで追加料金なしだったので
先日試しに見て、

本と同じところで
うかつにも泣いてしまった。

サッサンが、もうピッタリ。

肉子ちゃんも出だしこそ、ちょっと違和感ありましたが
それを打ち消して感情移入させるのは
さすがの(肉子ちゃん役)大竹しのぶさんです。

小学校高学年の女子の「グループ」のめんどくささや
キクりんの気持ちの描き方も秀逸。

絵もとてもきれいで

あれだけ嫌がっていたのに
実際にふたりが暮らしていたのはこんな町なんじゃないかと
素直に思ってしまう。

まいったな~。
「あれ、映画みたら、なかなか良かったんよ」
そう友達に謝らないといかん。

年末の忙しい時に、映画の話かよ?
と怒られそうですが
コロナ禍だからこそ、
年末年始は、家でゆっくり映画もいかがでしょう?

Amazonプライム会員の方は、今のところ
追加料金なしの「見放題」のようなので、ぜひ。


いやはや、
毎年のことですが
追い出されるように年末を迎え、
2022年も明日で終わりです。

ウクライナ侵攻など、つらいことも
残念ながらまだ続いています。

その人の価値というのは
何を成し遂げたとか
記録や数字に残るだけのものではなく

居なくなった後の寂しさにあるのじゃないかと思います。

かけがえない誰かと
かけがえない時間を
かけがえない場所で

みんなが温かく過ごせますように。

みんなが、存在にOKを貰えますように。

そう祈るばかりです。

今年もお付き合いいただき
ありがとうございました。

どうか良いお年をおむかえくださいませ。

一年後

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


2021_桜耳のゴマちゃん

わが家に、ゴマちゃんが来てから、一年になります。

当初は先住猫のハチさんと
一体どうなることやら・・・と心配しましたが

とりあえずは一年なんとか過ぎました。

来たばかりの詳しくは→こちら

当初のゴマちゃんは、ハチさんに対して
やや好戦的というか
小さいのに態度はでかいというか
ちょこちょこと
火花が散ることもありました。

これも致し方ないと言えるのです。

だって、気が合うから一緒にしたわけではない。

いくら助けた(つもり)でも
それは人間側の都合であって

猫たちにしたら
強制的に他の猫と、いきなり同居生活が始まっただけ。

気が合うならともかく、合わなければ
猫同士、お互いにストレスでもあったでしょう。

ところがある日、どうも決着がついたらしい。

ゴマちゃんが、ハチさんを上と認めたのです。

体格も腕力もハチの方が上ですが
どちらかといえば
喧嘩をふっかけるのは、ゴマちゃんの方。

人間のあずかり知らぬところで
何かの鉄槌をくらわされたのかもしれません。

それでも、ゴマちゃんはハチさんが好きみたい。
一緒に寝ようとします。

一方、ハチさん的にはNGみたいで、よく断られています。

元々、太り気味のハチの遊び相手になってくれれば
助かるのになぁと思っていたのですが
ハチは全く遊ぶ気なし。

ゴマちゃんは活動的で遊ぶのが好きなので
ハチが構ってくれないからと
こちらに泣きついてきます。

これじゃ、クララ(ハチ)の遊び相手にと
連れてきたハイジ(ゴマ)の、その遊び相手を
ロッテンマイヤー(私)がしているようなものでして

全くこちらの思惑通りにはいっていないのです。

とはいえ、それも猫にしたら
知ったことではない。

ある日いきなり、お外に行く自由がなくなってしまったのだし
そもそも飼ってくれと頼んだわけではない。

本当は自由にしてあげたい。
正直、こちらもその方が助かる。
ロッテンマイヤーの役をせずにすむ。

《こんな所に一軒家》のような環境でもなければ
ご近所の理解なしには難しいのです。

ごめんね、ゴマちゃん。
そしてハチさんもね。

202212_ハチ先輩を見るゴマちゃん
ゴマの心の声:(いつかあのモッフモッフの姐さんとお昼寝するんだ~)

救いは、ハチ先輩を見るゴマちゃんの目線かもしれない。

いつか一緒にお布団でぬくぬく
ひっついて寝るぞ!

そんな決意を感じさせる
一年後の元野良さんズでした。

また、本格的に厳しい冬がやって来ました。
同時に、野良さん達の正念場が始まります。

もっともっとか、ぐるぐるか。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


お金は、万能引換券なんだなぁ。

最近そう思います。

生活の、暮らしのあれこれを
なんでも自分で器用にこなせる能力があれば良いのですが
そうでない場合、得意な誰かにやってもらう方が良い時があります。

物々交換だと、こちらの手元にあるものが
相手の欲しいものでない時困るので
何にでも使える万能券がお金かなと思うのです。

その万能券をいかに効率よくゲットし、増やしていくか。

色々なノウハウや情報が出ていて
なるほどとも思うのですが
ついていけない自分がいます。

聞けば聞くほど、疲れる感じ。

月収いくらだと終わったなんていう言葉も
心がザワザワするのです。

お金が万能券なんだとすれば
自分の暮らしを、自分でなんとかやりくりできる人は、
万能券はそんなに必要ないとも言える。

なんやかんやと、ゆるやかな
暮らす土地の人とのかかわりがあって
野菜を分けてもらったり、助けてもらえる人は
万能券をちらつかせずすむのかもしれない。

万能券がないと生きていけないのは
たぶん、そういう意味で
私自身の自給率のようなものが
この国のように低くなってしまっているからなのではないか。

万能券を大量に稼いで
大量に消費して。
もっともっととせかされて。

その中に、本当に心から大事にしたいものが
どれくらいあるんだろう。

とは言え、自給自足で何でもこなせるほど
器用でもなく、根性もない私。

小さな自分の畑ですら
サツマイモ植えるくらいがやっとなのです。

そんなヘタレな私でも、イモヅル20本植えただけで
食べおおせないほどの収穫があります。
不思議なものです。

土が、増やしてくれたのです。

下手くそながら収穫するときは
なんだか「分けてもらった」ような感じがあります。

収穫後の芋の葉は、畑にふせておくと
いつの間にか土になっています。

もっともっとと、一方通行の
消費ばかりする世界とは違い

自然はぐるぐる回ってる。

自然にとって良いことをすれば、
良いことが回ってきて、

悪いことをすれば、
思わぬしっぺ返しをくらう。

もっともっとと、右肩上がりでないと許してくれない世界は
役に立つか、意味があるかばかりの世界で

ぐるぐる回る自然な世界は
なんやかんやと、実はなにかの役に立つ世界。

私的自給率をあげねば!と息巻くのではなく

少しずつ、自分の手でできることを増やしていくのは
自分の手を信じることにつながるのではないか。

自立するというのは
万能券だけの話でなく
自給率をあげたり、
券などなくても
人に頼ったりできる力のことなんではないか。

万能券を稼ぎ、右肩上がりに生きることも
自分の自給率を上げ、たくましく生きることも
私は、両極端にはできないけれど

どちらかを選べと言われれば
できたら、ぐるぐる生きたい。

ぐるぐる生かされて、
その仕組みの中に生かされてきたことを
ありがたがって死にたい。

半世紀ほど生きて、
今はそう思うようになりました。


リスク

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


『猫も老人も役立たずでけっこう』という養老孟司さんの本があります。

その中に、とても興味深かいお話が載っていました。

子どもが増えないのは、根本的に都市化と関係していると考える養老先生。

かいつまんで言うと、

都市というのは意識の世界。
意識の世界は不確定要素の多い自然を嫌う。

人工的な世界は、まさに不自然な世界。

でも、子どもは自然そのもの。

どうなるかなんて分からない。

「ああすればこうなる」ってわけにはいかないから
そんな風に考えてたら減るに決まってる。

少子化は
人々が意味で満たされた、意識の世界に住み着いて

自然と対峙する方法を忘れてしまったからじゃないか。

詳しくは『猫も老人も、役立たずでけっこう』の
「東京は消滅する?」の章をご覧ください。

今回取り上げたのは、少子化なんとかせにゃ!という話ではなく

「ああすればこうなる」と頭で考えることについて
考えてみたかったからです。

子どもの教育費にいくらかかる。

そう言われると、やっぱり引きます。ドン引きです。

とはいえ、いつから子どもはリスクになっちゃったのか。

それくらい掛かってもいいなら
産んでよし。育ててよし。
なんて投資みたいな話なんだろうか。

私は、(今回は)縁あって親になりました。

育てていて、何も辛いことがなかったわけではないけれど
その何倍も、教えられることも多かったです。

もう少し、こうだったらいいのにな。

わが子に対して要望がないわけではないけれど、

「全く問題ない子どもと取り替えてやる」
そうカミサマに言われても、断ると思います。即レスで。

だって嫌ですもん。連れていかれたら。
大谷翔平と取り替えるって言われても
やっぱり嫌だ。さみしい。

良い所も、残念なところも含め
一緒に過ごしてきた二十年そこそこの時間というものは

リスクかと言われれば、決してそうではないからです。

ただ、先行きが分からない中、経験もない中、
「ああすればこうなる」と頭ばかりで判断すると、

目の前の
どうなるか分からない世界は、リスクに写るでしょう。

でも、リスクだと思い込んでいることにも
なんらかの学びや、経験があるのって、
土が豊かになるように
その人自身や人生を豊かにしてるのかもしれません。

だから
「どうなるかわからないこと」嫌う意識の世界は、
それこそが不自然な世界だというのは
とても面白かったのです。

とはいえ、意識の世界を擁護しようとすれば
「現状を何とかしよう」と創意工夫してきた世界とも言えます。

もっと良いものを
もっと使いやすいものを
もっと簡単なものを
もっと安いものを

意識の世界は、もっと、もっと、もっと。

もっともっとと、右肩上がりでないと許してもらえません。
(「停滞」「伸び悩み」と問題視されるので。)

そんな中、
「ああすればこうなる」はずでやって来たことで
思いもしないほころびが出るのは

やっぱり、人間も「思いもよらない」自然の一部だからなんでしょう。


自然は、いつもこちらの都合よくは行きません。

子どももですし、人間関係だってそうなんだと思います。

じゃ、リスクだけかというと
やっぱりそうじゃない。

「ああすればこうなる」と計算ばかりしてると
本当はどうしたいのか
分からなくなってしまう。

死ぬときに、
計算通りうまくいった。
損はしなかった。

そう思えたとしても、残ったお金を抱えて
私たちは天国だかどこかには行けません。

この世に生まれて、「何の無駄もなく」
「何ひとつ損をしない」人生って、本当に豊かなんだろうか。

例えるなら
枯れることを嫌って、造花を飾るより

いつか枯れても、本物の花の方が
私は好いです。

良い香りや、キラキラと生きる気配、

そしていつか枯れても、

土に還り、その土を育てることも、

かけがえない、素晴らしい世界!

自然は、もっともっとではなく
循環する。

ぐるぐるぐるぐる、
いつか豊かになって戻ってくる!

もっともっとと、言われる世界より
肩の力も抜けそうです。


リスクと言われれば、リスクともいえるけれど

【決して損をしない】【無駄なものが何一つない】造花のような生き方よりは

なんて豊かなんだろうと

私は思います。

大工は大工の。言葉はつたわるか。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「大工と話すときは、大工の言葉を使え」
そう言ったのはソクラテス。

それを用いて

「コミュニケーションは受け手の言葉を使わなければ成立しない。
受け手の経験にもとづいた言葉を使わなければならない。」

そう言ったのは、ピーター・ドラッカーです。

言葉が通じても、心まで通じるわけではない。

そう思うことがあります。

反対に、言葉は通じなくても、心が通じるような時もある。

心が通じる!までは大げさでも
「あんたのことは、よ~分からんけども、OKだ」と
承認されたような心地になる。

そんなことはありませんか?


どんなに同じ言語で話しても、通じないこともあれば、

「言葉」の通じぬ赤ちゃんや、犬猫や、外国の人に
言葉以上のOKを貰える時、

言葉はあくまで「道具」や「ツール」の一つに過ぎず
絶対ではないのだなぁと実感します。


ウクライナ侵攻が始まったとき、ショックでした。

いきなり、なのだと。

いきなり、何もかも壊されるのだ。誰かの正義の名のもとに。

兄弟国とまで言われ、言葉も通じるのに。

「やめてくれ」といってるのに。


そんな中、ウクライナのゼレンスキー大統領の
戦禍の中からの言葉は、なんと伝わりやすかったか。

世界一貧しい大統領と言われたホセ・ムヒカ元大統領(ウルグアイ)もそうでしたが
言葉は違えど、伝わりやすい言葉を使う人がいる。

それは何故か。

それは、私たち民衆の側に立ち、私たち民衆の言葉で伝えようとしている。

大工は大工の、と言ったのは決して社会的立場だけの話ではないはずです。

「誠に遺憾です」「断固抗議します」
「おっしゃる通りです」

言葉は正しくても、全く温度を感じない時がある。

それは何故か。

育ちのせいかもしれませんが、
(少なくとも私は)頭の中で考える時、心で感じる時
遺憾とか使いません。

残念だという意味やニュアンスは分かるけれども、
どことなく違和感を覚えるのは、
使い慣れないからかもしれない。

もしくは、発する側の「温度」や「熱量」の影響かもしれない。




以前、PTAで県内の女性代表が集まる会議に出たことがあります。

そんな中、代表の方が仕事で出席できないからと
「事務局のものなんですが...(笑)」と代わりに出席された女性がいました。

会議で意見を交換する中で、その方が

「・・・えっと、ちょっと方言丸出しになるんですが、
いつも使っている言葉で言っていいですか?

なんか、きちんとした敬語で話そうと思うと
自分の心と違う感じになるんで」

と前置きして、いつもの、
友達に話すような言葉で話し始めました。

何故かそれがとても印象に残ってて、
みんな笑って、その場の雰囲気がすごく柔らかくなったのを覚えています。


発する側の温度が温かければ、言葉はいらないかもしれない。

逆に
発する側の温度が低ければ、言えば言うほど・・・ということも
あるかもしれない。


正しさより、まずは温度。・・・た、態度もかな(^_^;)

どういう思いで言っているか。

それが大切なんでしょうね(^_^;)

言葉って難しい、です。奥が深い。

信じるということは

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


信じるということは、
闇雲に、盲目的に、
誰かの
何かの
言いなりになることなんだろうか。

最近、ちょっと考えてしまいました。

「言いなり」という言葉はともかく、

おっしゃる通り
言われたとおり
それを疑いもしないで行うことが
「信じる」ということなのか。
私にはよく分からないのです。


「こうしないと、ひどいめに遭う。」と脅すことも

「こうしていれば、幸せになれる」と優し気に言うことも

どちらも「言うとおりにしていれば」が前提で
結果や成果が現れない限り
「おまえの努力が足りないからだ」と言われる。

ムチを恐れて、言いなりになることも
アメを欲して、言いなりになることも

それは、本当に「信じている」ということなんだろうか。

大人と子どもに例えれば分かりやすいのですが

罰を恐れて大人の言いなりになる子
愛情や関心、もの欲しさに大人の言いなりになる子

それは、大人を信じているんだろうか。

言うことをきかないと
ひどい目にあわす大人

言うことをきかないと
愛してさえくれない大人

そんな大人の顔色ばかり気にして
弱い立場の子どもは、
いつ、心から安心できるのだろうか。

仮に、状況によらず
【幸せな状態】というものが、
安心していられること、
心やすらかなことだとすれば、

子どもを安心させてやれることが
大人の、さらには何かの、役割なのかもしれない。

どんなにあなたのことを信じているか
どんなにあなたのことを愛しているか

それを饒舌に語れる人間が
それを語らない人間より
本当に「信じている」と言えるのか
私にはよく分からないのです。

以前、カメラ片手に
朝日が昇るころ、風景写真を撮りに行ったことがありました。

待ち構えていると、
東の空がだんだん明るくなってきて

目の前の田んぼや、山々を
お日様の光が、まんべんなく照らしていきます。


カメラを構える私にも
コスモスの花々にも
雑草にも
土にも

同じように陽が当たっていく。

「あぁ、分け隔てなくって言うのはこういうことなんだ。
いじけて陰に隠れてさえなければ
どんなものにも
こんな私にも
同じように光は当たるんだ。」

と、妙に納得した瞬間でした。

とはいえ、俗世にまみれて
日々不平不満ばかりの私ですので
すぐ忘れてしまうのですが

「信じる」ということの本当は
明日も日が昇ることを
疑いもしないことに似ているんじゃないか。

明日お金が無くなる心配はしても、
なぜか
明日空気が無くなる心配はしない。

それは、
明日も同じように空気があって
同じように生きていることを
疑っていないから。

信じているから。

少なくとも
ムチを恐れず
アメに振り回されず

自分の心を安心させる術を
私なりに
少しでも身に付けたいと思います。

偽物は脅す
偽物は焦らせる

心配に似た
親切に似た

「あなたのため」という名の
【支配】もあるかもしれない。

どんなことにも。
どんなものにも。
お互いに。

信じていれば簡単なんです。
なぜなら自分で考えずにすむから。

そう言ったのは誰だったっけ・・・。

かわいいと思うものは

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


わが家の玄関先のツバメが、今年は無事に巣立ちました。

2022_空っぽになったツバメの巣

今年は、というのには理由があって
数年ぶりの巣立ちなのです。

わが家が建ってから数年。

わりと早い段階でツバメが巣をつくるようになりました。

ことりのかあさんと名乗るくらいですから、
鳥は好きなので、ツバメwelcome!

FUNの心配も、デッキブラシでこすって流せばよいので
何の問題もなし。

可愛いヒナが見れるなら、なんてことはないのです。

2022_今年のツバメのヒナ

これは、今年のヒナたち。

卵のかけらが数個落ちていましたから
フルメンバーとはいかなかったようです。残念ながら。

個体の識別まではできませんが、きっと
違う夫婦が来ているんだろうと思います。

なぜなら、毎年個性的だからです。

巣作りが上手なカップルもいれば、
下手なのか材料が悪かったのか、
せっかく作ったのに巣が崩れてしまうカップルもいました。

夫婦の連携が取れていて、絶対に巣をどちらかが守っているカップルもいれば、
お互いに好き勝手出て行って、いつもヒナがお留守番のカップルもありました。

今年は、神経質なくらいヒナを守ろうとするカップルだったので
あまり写真が撮れませんでした。(と、言っておこう)

友人の、今は亡きお父さんが
「ツバメが巣をつくる家はいいぞ!」とおっしゃってくれたのですが
今思えば、遠くはるばる国境を超え、海を越えた来たツバメに

巣作りくらい多めにみてやってよ

そんな優しさをこめた方便だったのかもしれませんね。

ヒナが小さいうちは、鳴き声も小さく弱弱しいのですが
大きくなって体力がつくと、
玄関先で「ジージージージー!」と
エサをねだる声がリビングまで届きます。

そしていつの間にか、巣が狭くなるころ、
それまで巣の中にいたヒナたちが、
巣の際に「とまる」ようになります。

「あ~。明日にでも巣立つかもしれんね~」

そう言っていた翌朝!

2022_巣立ったツバメ

めっちゃ飛び回っていました(笑)

まだ下手なのか、木の枝に止まって一休みする子、
出遅れて残っている子、色々でしたが
陽が高くなるころには
巣は空っぽになっていました。

あ~。良かったぁ~。

本当に、無事巣立ちの時を迎えるまで
可愛い反面、こちらはヒヤヒヤなのです。

あ~、本当に良かった~。

ドヤ顔のツバメ

↑ちょっとドヤ顔に見えんでもない?

立派に大人になって。

・・・と思いきや、子どもが言うには
電線で親にジージージーとエサを貰っていたとのこと。


・・・まだまだ、すねかじり真っ最中やん!(笑)


それはともかく、
また、来年元気で戻って来てくれますように。

何かをかわいいと思うことは
心配の種を一つ拾うことなのもしれない。

かわいいと思うものが多いほど
心配の種も増える、のかな?

言い方を変えれば、心配の種は
希望とか祈りのようなものかもしれない。

可愛いから、無事でうれしい。
ただ、それだけなのです。

またおいで!
ここで、待ってるからね(^_^)/~

どうか、嫌いなことで死なないで

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「図書館で前に借りたんだけど、面白い本でね。
返した後も、しばらくしたら読みたくなって、また借りたりしよる。」

大分に住んでいた友人が教えてくれたのが
大原扁理さんが書いた『年収90万円で東京ハッピーライフ』という本。
(※その後増補されて『年収90万円でハッピーライフ』として文庫化されています。)

25歳から、週の2日だけ働いて
残り5日は隠居生活を送る大原扁理さん。

本を出版したころは
年収約90万円で、あの東京で、
それこそ「ハッピー」に暮らしていた方です。
その後、今度は台湾でも隠居暮らしを始めています。

「社会的成功から乗り遅れまくっている」という彼は、
世間一般が考えるフツーから脱出して、
自分にとって何が本当に
身も心もラクで幸せなのかを考えて、実践してみた人です。
実践とはいっても、がつがつした感じでなく
とても心地よく楽しそうな暮らしっぷりです。

扁理さん自身も
「同じような隠居を勧めているわけではない」というように、
読むと、なるほどなぁと納得する一方で、
「これ、家族がいるとそうもいかないなぁ。」と思う面もあり。

家族が全員、こういう考え方なら問題ないですが
強制はできないからです。

ただ、その一風変わった暮らしかた、考え方の中に、
妙に核心をついたものの見方をする人で、読んでいて
ハッとさせられることが多かったのです。

なかでも、仕事と就職について書かれている箇所は目から鱗でした。

ざっくりとしか書けませんが
大原扁理さん的な考え方では

「好きなこと」や「やりたい仕事」なんて
死ぬまで見つからなくっても、別にいいじゃないですか。
大事なことは、「嫌いなこと」や「やりたくないこと」で
死なないことですよ
、と。

・・・これはビックリした。

聡明すぎてビックリした。

好きなことで死ぬならともかく
嫌いなことややりたくないことで死ぬなんて、
本当に馬鹿ばかしい。

話は逸れるのですが、以前過大広告について考えてみたことがありました。
(注:もくせい工舎とは関係ないです)

例えば、実際に行ったこともない店を
過剰に褒めるような内容や、
使って本当に良いと思ってもいない商品を
過剰に評価するような内容で

例え、それがお仕事として
幾ばくかの収入を得たとしても
それって、結局は誰も幸せにならないんじゃないか。

目先のことだけ考えれば
自分はお金が手に入るんだし、
そういう依頼をしてきた会社は、一時的には喜んでくれるんだろうけど
実際にお店がとても褒められたものでなかったり
商品が悪ければ、
会社側も信用を失うし、広告も信用を失うことになる。

大原扁理さん的考え方を借りると、ではどうしたらいいのか。

その仕事(ここでは過大広告ですが)が本当に好きで、
これで死んでも悔いはないなら、構わないかもしれない。

でももし、「こんなことが理由で死ぬのは勘弁してほしい。」
そう思うのなら
「やっぱり、やめとこ!」という道もあっていいのではないか。

過大広告書いて、自分の中にモヤモヤした
毒を貯めるくらいなら
書かずに飢え死にする方が
納得して死ねるような気がしたんです。

(繰り返しますが、もくせい工舎とは関係ない仕事のことです)


自分は本当は望んでいないのに、
「仕方がないから」「任務だから」でやりたくないことを
やらされることもあるかもしれない。

仕事や学校、家庭内だけでなく、国単位でも。

ただ、やりたくないこと、嫌いなことで
どうか死なないでほしい。

命令する人間は無傷で、
なんで小さな子が死ななくてはいけないのか。

知らなかったとはいえ、
命令とは言え、
好きなことで死ぬならともかく
なぜ納得いかないことで
死ななければいけないのか。

例え、うまくいったように見えても
力で外部を抑え込むボスは、
仲間内だって同じことをする。
気に入らなければ、次はあなただ。

みんなボスが好きだから傍にいるわけではない。
怖いからそうしている。

そんな関係は、いつか破綻する。

友人関係にしろ、もっと大きな組織にしろ。

どんなにタダシイ(と思い込んでいる)人が、
どんなにタダシイ(と思い込んでいる)目的のためであっても、

誰かの「それからも続くはずだった人生」を奪っていい理由にはならない。

「嫌いなこと」や、「やりたくないこと」で
どうか、もうこれ以上
誰も死なないで。

子ども達が泣いている。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「私を怒らせると怖いんですよ。」

そう発した相手が、どんなに「いいひと」であっても
このセリフを聞いた途端、なにかが凍り付く。

要は、「肝に銘じておけ」という脅しなのだ。

脅しで安心は買えない。お互いに、だ。

「あなたとはずっと仲良くやっていきたい」
そうにこやかに笑う相手の懐に
いつでも刺せるナイフを見て
その「友人」の前で安心なんてできるんだろうか。

そのナイフを相手は「護身用」だというかもしれない。

持っていれば、こちらに手出しはできないから、と。

でも、反対にこちらが「護身用」として銃をもったら?

どんどん「護身用」はエスカレートする。
お互いの「ご信用」だって、どんどん地に落ちる。

誰かをいじめなければ
自分がやられるような「仲間」の中で
心から安心する居場所なんてあるのだろうか。

気に入らなければ、何をしでかすか分からない
その「ボス」を心から信頼できるだろうか。

やらねばやられるからと
誰かを排除しつづければ、
自分は安心なんだろうか?

そのうち、自分の番が回ってくるだけだ。

権力の座、何かのトップ、
そういうものは「下」だと思い込んで見下している
市井の人々あってこそだというのに
それに気づかない。

この星で人っ子一人で
権力も何もあったもんじゃない。

どんなにきれいごとを並べても
どんなに正当化しても、

ほら見ろ。子ども達が泣いている。

子どもを安心して、笑わせることもできないで
そんな大人がエラそうなこと言えない。

土地は祖先から譲り受けたものではない。
子孫からの借りものである。

ネイティブアメリカンの言葉を借りれば
この土地は、この世界は
権力者だと思い込んでいるアンタのもんでも、
その他大勢の大人たちのものでもない。

ほら見ろ。子ども達が泣いている。

「大人」は今すぐ、蛮行をやめるべきだ。
恥ずかしい。

縁起を担がねば?

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


2022年が明けまして、
めでたいめでたいって言ってたら
あっという間に節分コーナーができていました。

豆まき用の豆やグッズに、
恵方巻の予約などが並んでいます。

中年の私にとってはこの恵方巻。
かなりの新参者なのです。

確か、関西でそういった風習があるというのを皮切りに
毎年のようにスーパーでコンビニで出回るようになったような記憶があります。

毎年、その年の縁起の良い方角【恵方】を向いて
海苔巻きを丸かじりする。しかも、しゃべってはいけない。

ある時期を境に、当たり前のように現れた
新しい「習慣」。
う~ん。これはうまいこと販売戦略に引っかかっているだけでは。

それでも、やってしまう。まんまと乗せられて。

特に子どもが小さいころなどは
一緒にできるイベントごととして、楽しんでしまう。

海苔巻きを用意し、
100均の方位磁石で、おおざっくりな恵方に向かって
「こりゃ、笑うな」とか言いながら、願い事を思う。

思えば、バレンタインデーのチョコレートも
ホワイトデーのマシュマロも、
お菓子メーカーと広告のキャッチコピーによって
一斉に広まった日本独特のものです。

クリスマスだって、キリストの誕生を祝うというより、
ケーキを食べたり、サンタからプレゼントをもらうイメージの方が強い。

赤い服に白いひげ=サンタクロースも、
コカ・コーラのポスターが元になって
イメージが固定されたと言われています。

昔からの風習や習慣が、
何かの販促のために、少しずつ形を変えて
新たな習慣や常識となっていくのかもしれません。

じわじわ習慣となるのか、恵方巻。

恵方巻然り、おせち料理や年越しそば然り。

縁起物って、それをしないと
縁起が悪いってわけではないんですよね。きっと。

調べると、縁起物というのは
「良いことがあるように祝い祈る品物」だとか。

祝いが、「やらないといけない」呪いになるのは
ちょっと違うはず。

販促にのせられて、やらねばならない義務はない。

どうか今年の節分は
余った恵方巻が大量に処分されたりしませんように。

なかったら、ないでも構わないのだから。

「足りない」を怖がりすぎる気がします。私も含め。

足りなくても、何とかなるものなのに。

足りなくて、次に出るのは
きっと「知恵」でもある。

熊手
そういえば、コロナの影響もあって初詣にまだ行っていません。
行かないと罰が当たるような、そんな気持ち悪さもあるのですが、今年は行かないとどうなるか試してみようかな。
もっと世界を信頼していいのかもしれない。

気にして見ている

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


遅ればせながら、
明けましておめでとうございます。

(ブログを書きたいのは山々のようですが)
忙しいもくせい工舎のお二人には
本業(良い木の家をつくること、お客様の建てた後の暮らしを考えることetc.)に専念して頂くべく、

及ばずながら、少しずつ
お家のこと、自然のこと、暮らしのことなどを
書かせていただこうと思います。

このブログ以外にも、もくせい工舎のインスタもございます。
そちらは、合間を見て"相方さん"が上げていると思うので
良かったらご覧くださいね。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


ところで、今季の冬はちょっと様相が違ったのです。

バードテーブルになかなか野鳥が来ない。

いつもなら、ヒッヒッヒッとジョウビタキの声がしたら、
シロハラがやってきて、
ヒヨドリやらメジロやら、みかんやリンゴを競うように食べに来るのですが
全く来ない。

庭に野良猫がウロウロしてたから?

そう思っていたら、ずいぶん遅れてようやくやって来ました。

2022_シロハラ

シロハラです。

ジョウビタキと同じく、日本で越冬する渡り鳥です。

気のせいでしょうか?
ツバメにしても、この子たちにしても
少しずつ見かける時期がずれているような気がするのです。

温暖化の影響、といえばそれまでなんですが
時期がずれれば、食べ物も巣材の確保も、ずれ込むような気がするので
ちょっと個人的に、気にして見ています。

気にしてみる、といえばこれ。

20211225_原田左研の親方。三和酒類の辛島虚空乃蔵の左官仕事
(※諸事情のため、文章が読めないくらいに引いて撮影しています。見にくくてすみません。)

昨年のクリスマス。
新聞にヘルメットを着用した
左官をするサンタクロース(?)が。

もくせい工舎OB様には、一度見たら多分忘れられない、この人物。

そう、もくせい工舎の漆喰の壁を手がける
原田左研の親方なのです。


なんでも、三和酒類さんの酒造観光館が
この春【辛島虚空乃蔵(こくうのくら) 】として
リニューアルオープンするらしく、その壁を担う親方が
その広告に掲載されていたのでした。


実は、それを知らず偶然近くを通りかかった時に
「・・・あれ?左官さんが入っているな~」と
工事中の建物を見て思っていたのです。

養生の仕方が、もくせい工舎のそれと似ていたので
「へ~。どんな建物ができるんだろう。」と思っていたのですが
まさかのドンピシャ、原田左研のお仕事だったとは!


広告によると、ニシノホシの麦わらや市内赤尾の粘土が使われているようです。

外壁にその土地の土を塗ることで街の風景が創られてきた

そう語る親方の言葉通り、空間の雰囲気やあり方を大事にする姿勢が
ものづくりにも表れていくんだと思います。

きっと素敵な、何とも言えない味わいのある空間になるんだろうな~。

こちらも「気にして」見ていきたいところです。


そうそう、こちらも気にしてみていきます。

202201_猫のハチとゴマ

わが家の先住猫のハチ(白黒ハチワレ・♀)と新入りのゴマ(ムギワラ・♀)です。

だ、だいぶん慣れてきた?かな?

仲が良くも悪くもないけど、時々雲行きが怪しくなるので
レフェリーストップが入ります。



元々、外で他の猫にいじめられていたから引き取ったゴマでした。

そのいじめていた猫は、あれだけ姿を見せてたのに
もう見ません。

外が氷点下になる昨今。どうしているだろうかとも思います。


ゴマは、弱いから助けられました。
その代わり、自由と母親になることを失いました。

あの追い回していた子は強いから、この寒空の下
どこでどうしているかも分かりません。

何が猫の幸せなのか。それをどうして私が決めれるのか。

猫の幸せをひとくくりで決めてしまうことは
「女なんだから結婚して子どもを生んで
 家にいるのが幸せに決まっている」と
言われることと一緒のような気がするのです。

何を幸せに思うかが、人によって違うように
猫の幸せも、猫によって違うんじゃないか。

ただ、助けようとすると
諸事情を鑑み
避妊、室内飼いしかできなかったのです。

「こうするべき」という考えが
正しいか間違っているかはともかく、

せっかく生まれてきた命が
人間も、動物も
できたらヌクヌクと温かい場所で休めるよう願いたいところです。

気にして見ている。

そういうことが増えれば、
何かあった時、少しはお力になれるかな?

優しげなことが優しいとは限らないけれど
無知無関心もなんなので。


今春、宇佐市辛島の虚空乃蔵が完成しましたら
興味のある方は
ぜひ原田左研さんのお仕事ぶりを観に行ってください。

「あ~、こんな空間好きだな~。
こんな感じの家に住みたいな~。」と思ったら
是非もくせい工舎のお家を見に来てくださいね。

正し、設計は虚空乃蔵とは違うので
そこはご留意ください。

漆喰のやさしい雰囲気に、
これでもか!と木をつかったお家です。

自然素材の家づくりに
木も気もつかっていいるというワケです。

新年早々、ダジャレですみません。

こざっぱり。できるだけ。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


年末ですね。年末。

・・・どうしよう(笑)

わが家は、毎日ルーティンとして掃除する場所と、
年末しかしない場所があります。

毎日のルーティンを少しずつずらしていけば
何となく家全体がいつも綺麗に保てるのは
理屈では分かるのですが
それができない。

どうしても、最低限ここだけ!
を掃除するのでいっぱいいっぱいなのです。

だから年末しか掃除しない場所は
汚れも一年分ですから
かなり頑固で苦労する。

今はスイッチ一つで便利になった分、
部品も複雑で、掃除がしにくい感じがします。

システムキッチンなどは、
大掃除のことを考えたら
レンジフードから何から、
シンクに漬け置きできればありがたいのですが、
レンジフードカバーは、手に余るほど大きく
「いったいどこで洗うのかい?庭か?風呂か?」と泣きたくなります。

う~ん。デザインした人は大掃除しないんだろうか。

ぜひともメーカーさんには
大掃除の洗いやすさもお願いしたいところです。

あと、レンジフード以外の難関と言えばこれ。

2021_oosouji.jpg

お風呂の乾燥機の換気扇。

まだ築数年のお家は特に異変を感じないかもしれませんが、
実はこれも曲者だったのです。

建てて数年後、天井から何やら黒いものが落ちてくる。

・・・怖いでしょ~(笑)

わが家では、毎年フィルターは掃除していたのですが
換気扇の羽の間に、
びっしり湯気と誇り(←あえてこう書きます)が混じった黒い汚れが‼

そこがMAXになって、ある日ハラハラと粉雪のように舞い落ちたのでした。

・・・ひゃ~‼‼‼‼

まだ黒い雪が舞い降りてないお宅は、
ちょっと見てみると良いかもしれません。

換気のために付けっぱなしだと、
かなりの確率でなっているかもしれません。

くわばらくわばら。

できれば、こざっぱりして年越しをしたいところですが
光陰矢の如し。

あっというまに明日は大みそかなのです。

多少のやり残しはあっても、
え、笑顔で年越しをいたしましょう。
きりがない。

あと、このこも我が家で年越しとなりそうです。

2021_goma_sakura.jpg

無事に避妊手術を終えたゴマちゃんです。

予約していた日になかなか戻らず、
延期し、クリスマスイブに手術となりました。

あとは、傷が完全に塞がるのと
お腹の禿が治るのを待つばかりです。

先住猫のハチとは・・・もうちょっとかな。

ハチの方が、気分にムラがあるので
気長に様子をみましょう。

あ~、今年も終わる。

オリンピックとコロナの2021年。

来年は、もっと安心できる世界が待っていることを祈ります。

それでは皆様、良いお年をお過ごしくださいね。

冬来りて猫が鳴く

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


早いもので、あと半月もすると、2021年も終わりですね。

色とりどりに染まった紅葉にうっとりしていたら
いつのまにか寒さも本番に差し掛かっています。

冬眠場所を探すクサガメ
さすらいのクサガメ。冬眠場所を探して迷い込んだかな。

亀はともかく、
寒くなると、妙に野良猫が目につくのは私だけでしょうか。

元野良猫のハチが我が家の庭先で
「入れろー!」と鳴いたのも、11月のはじめ。

思えば、サツマイモ掘りは
11月のはじめの頃には終わらせます。霜が当たるからです。

その頃にはもう、朝の冷え込みも強く
外暮らしの猫たちには、本当に堪えるのでしょう。

猫の発情期のピークは春(2~4月)と夏(6~8月)

発情するのはメスのみで、
オスはそれに促される形となるようです。

妊娠期間が2か月くらい。

そうすると、単純に考えれば
(2~4月)で、4~6月の初夏生まれ。
(6~8月)で、8~10月の初秋生まれとなります。

ハチが来たのは、満1歳にもならない8か月くらいだと思うので
おそらく、初夏生まれ。

初秋生まれ、しかも遅ければ遅いほど、
霜が降りる頃になっても、まだ生後数か月ってとこでしょうか。

野良猫の生活の厳しさから考えても、
冬が来る前にある程度育っていない子猫は
春を知らずに亡くなる可能性が大きくなります。

「野良猫が車のボンネットに乗って迷惑だ。」

そりゃ、猫嫌いな人もいるし、
野良猫に興味のない人もいるし、
車に傷でもついたらというのも分かるし。

ただ、「車に傷でもつけて困らしてやろう」と思って
上に乗っている猫なんていないんですよね。

もう、寒くて寒くて、
ようやく温かい所を見つけて
夜の間冷え切った体を温めてただけで。

私は猫好きなので、そういうお宅に
室内犬用のお洋服なんかの洗濯物がかかっていると
ちょっと複雑な気持ちになってしまう。

好きで野良に生まれたわけじゃなかろうもん!

ペットショップで買えるだけが命じゃないぞ~!

生まれ変わって野良猫になってみたら分かるよ!

んで、「汚い野良猫、あっちいけ!」って言われてみればいいよ!

チックショー~~~~~!(小梅太夫か?)

ついつい取り乱してしまいました。すみません。


一見自由とはいいながら、寒い。ひもじい。怖い。
そんな思いをしながら生きている野良さん達。

私なら耐えられないと思います。

ハチも、ホウキを怖がるので
きっと嫌な目にあったことがあるのでしょう。

今思えば、それでも勇気をもって
というか、図々しく?
「入れろ~!」と人間を「頼ってみた」と言えます。

凶と出るか吉と出るか。

わが身の運を気にするのなんて人間くらい。

「そんなん知らん~!
ともかく、声をかけないと死ぬ~!」・・・と思ったのか。

いや~、この点も私などは
「この前ひどい目にあったから」ってウジウジして
凍えと飢えで死んでいたかもしれない。

・・・声かけてくる猫って
実は、図々しいばかりの勇気があるんじゃないか。

・・・で、来ちゃったんですよ。また。
その類が。

この子です。

2021_野良猫ゴマちゃん

・・・どうしよう(笑)

とりあえず、猫風邪ひいていたので病院にかかって
治療しました。

近々避妊手術の予定です。

ただな~、こればかりは先住のハチ先輩次第のところがありまして。

今、じわじわとお互いに慣らしている最中です。

2021_ハチとゴマ

一年たってもどうにもならなかったら
嫁入り先を探さないといけないかも。トホホ。
(時間がたつほど、ではありますが)

「ぜひ、わがやに!」って方がいましたら
もくせい工舎までご一報ください。
(↑勝手に言ってます)

厳しい審査の上、泣く泣く嫁に出します。
(とはいえ、なるべく頑張るんですが)


オスの行動範囲は広く、メスはそれほどでもなく
そこそこ近場で一生を終えます。

メスの発情が引き金になって、オスも・・・となると
やっぱり、地域猫のメスだけでも
できるだけ避妊させることが、
かわいそうな野良猫をこれ以上増やさない糸口になると思います。

とはいえ、正義感に燃えて言ってるわけでなく
やっぱりモヤモヤするんですよ。
猫に頼まれてそうしてるわけじゃない。

ただ、猫にしろ、人間にしろ
生まれてきたからには・・・っていうのがある。

好きで寒空の下、凍えているわけじゃない。

「そういう運命なんだから仕方ない」
って、自分事だったとしてもいえるのか。

・・・・。

チックショー~~~~~!(再びすみません。)


人の気持ちを知ってか知らずか。

2021_ゴマちゃん

そんなんリラックスして。

2021_ゴマちゃん

名前はゴマちゃん(♀)。柿のゴマ模様みたいだからです。

セキセイインコのQ太郎、猫のハチ。
9,8・・・で数字に絡んで5です。

7,10はボツになりました。

2021_ゴマちゃんのカギしっぽ
チューリップ型のフライドチキンのような、カギしっぽがチャームポイントです。ピコピコ動きます。

2021_ゴマちゃん

幸せになろうね、ゴマちゃん。

・・・その前に、ハチ先輩だけど。

それだけが全てじゃない。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


不思議なもので、お腹が痛くない時は
お腹のことを
それほど意識していません。

ところが、いざ痛くなると
気にもしていなかった
お腹のことで頭がいっぱいになる。

具合が悪くなる、つまり日常に不具合が起こると
途端に、そのことばかりに意識が向くようになります。

その不具合に病名がつけば、「病気」なんでしょうか。

検査の数値は問題ない。
病院に行くほどでもない。
けれども、あまり調子がいいとも言えない。

「病気」の反対は、「健康」と言えそうですが
じゃ、その「健康」がどういう状態をいうのかは
かなりあいまいなのかもしれません。

同じように、
幸不幸も言えると思います。

不幸は何となく分かりやすいけれど、
幸せってどういう状態か分かりにくい。

恋人や家族や、お金や、地位や、
何かを手にしている状態を
単純に「幸せ」といえるのか。

同じ状態でも
不幸のどん底のような顔をしている人もいれば
平気で幸せそうな顔をしている人もいる。

じゃ、不幸のどん底のような気持ちになる人が悪いと単純にいえるのか。

同じようなことも
過敏に受け取る人と
鈍い人がいるのは
心の体質のようなものなのかもしれない。

花粉症の人に、過敏なあなたが悪いんだといっても仕方ない。
だって好きでなったわけではないんだもの。

人間にひどい目にあわされた猫に
人間嫌いは性格の問題とは言い切れない。
だって嫌な目にあってきたんだから。

繊細な心(気質)の人に
そう考えるあなたが悪いといっても
もう、受け取った時点で
アレルギー反応のように心が反応してしまっている。

何も好き好んで過敏になったわけではない。
だから、まったく過敏な自分を嫌いになる必要ないんじゃないか。

花粉症や猫と違って、少しできることがあるとすれば
過敏に反応してしまうことはさておき、
「落ち着く」ことかもしれない。

体の真ん中に一本の芯があるようなイメージをして
そこがまだダメージを受けてないと思えると
少し楽かもしれない。

心にさざ波が立ってはいるけれど、
落ち着いていたら波は収まる。
それをイメージすることかもしれない。

不具合が起きても、とりあえず生きているなら
大丈夫。

ただ、命にかかわることからは
全力で逃げる必要があるけれど。

生きていれば、なんやかや不具合は起きるけど
自分の命や、芯の部分が無事なら大丈夫と言えるのではないか。

病気になったら、私が一番最初に気を付けることは何かというと、(略)一日中、病気のことで頭をいっぱいにしないことである。
by 宇野千代

宇野千代さんの考え方をアレンジすれば
病気を不幸、というより不具合と言い換えると分かりやすいかもしれない。

不具合で頭をいっぱいにしない。

上手くいってることもあるんだから。


・・・と、自分に言い聞かせているわけです(笑)

「当たり前」をささえるもの

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


わが子が小さい時、それはもう、笑えるほど度々病気になりました。

兄弟そろって気管支炎だの、肺炎だので
入院することも度々で
「幼稚園に今月2日しか行ってない」なんてこともありました。

誰の助けもあまり期待できなかったので
「こりゃ~、まともに何時から何時までの仕事に就くのは無理かもしんない。」

そう思って通信でWebデザイン等を勉強した時期がありました。

今から10年以上も前のことなので
AdobeのDreamWeaverというソフト。

これがまた私のアタマには難しく、
やっとこさ完成させても
InternetExplorer6問題だったか何かで
(こちらできちんと表示されててもIE6だと表示が崩れちゃう問題)
すっかり心が折れてしまい
付属で覚えた
illustratorとPhotoshopでこうして細々お仕事をしています。

日進月歩の世界は
歩みがゆっくりな私にはついていけない。

今はWordpressなんかで、皆さん
サクサクとサイトを作っているようなので
あんなに勉強してみたことも
日進月歩が
「誰でも簡単に」それなりにできるようにしてくれます。

地道にコツコツした経験値が
やがて地層のようになるのとは
ちょっと違う世界。
乗り遅れないよう、最新のものに常にアンテナを張って
刷新していかないと置いていかれてしまう。

ちょっと私には無理でした。

でも、そのWebデザインの勉強の時に
講師の方が話していた言葉が印象的だったのです。

「Webデザイン然りなんですが
デザインって不便や不都合を感じさせないように作ることが前提なんですよ。」

つまりWebデザインでいうと、クリックするボタンの大きさ一つ、位置1つ、
サイトの訪問者に「?」って思わせてはいけないということ。

なんの不便も感じさせず、「さらっと上手くいく」ようしないといけない。

不便を感じさせないのがデザインの仕事ということです。

車や家電などの工業製品のデザインだとよく分かりますよね。
炊飯ジャーでも「炊く」のボタンが一番大きく押しやすいのは
そういう配慮です。
マニュアルを最後まで読まないと「炊く」ボタンが分からないのは
製品としてアウトですもんね。

機能とは関係なさそうなグラフィックデザインの世界でも
イベントのポスターなのに
開催日時がどこに書いているのか分からなければ
「?」ってなりますから、デザイン的には失敗ということです。

デザインとは、設計・図案・意匠のことだと出てきます。
「?」ってなったり、困らないよう設計する機能的な美しさでしょうか。

あ~、でも
「困らなくて」「きれい」ってデザインだけの話ではないはず。

日頃、「なんの不便も感じさせない。」そういう仕事。

おおやけに「役に立つ」と言われている仕事はもちろん、
名もなき、小さな仕事にも
誰かに不便を感じさせず、快適な日常が当たり前に送れる働きがある。

洗濯かごに放りっぱなしにしていた昨日の靴下が
何年も同じ位置にないのは
誰かが洗濯してくれたからだ。

お金になることばかりが仕事じゃないと
頭ではよく分かっていても
そういう小さな仕事って、もう少し有難がってもいいような気もします。

明日起きれば、温かいご飯とみそ汁、お弁当ができてる。

・・・なんて、当たり前じゃないんだよな。きっと。

当たり前のことが、当たり前にできているのは
きっと、陰ひなたなく
誰かがそうやって働いてくれているからだ。

家事は
日々の暮らしに「困らないよう」「きれい」にしてる
デザイン業務とも言えそうです。

あれをやって、これをやって、
こうしている間に、あれをやって・・・。

家事は頭もフル回転。

疲れは「体」ではなく「脳」の疲れといいますから
もう、立派な激務ですよ。

もっと胸をはっていいと思いますし、
ねぎらって貰っても、おつりが出るくらいです。

家族の「当たり前」を支える。

お金になる「仕事」も、
お金にはならない「仕事」も、
どっちも大事。

ただ、お金にならない「おうちしごと」に
もっと光あれ!

・・・と願います。

「意味」

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


先日、久しぶりに赤ちゃんにふれる機会がありました。

予定日よりずいぶん早めに生まれてきたらしく
実質的には8か月。

伝い歩きが楽しいようで
ニコニコしながら近づいてきます。

手を差し伸べて抱っこすると

・・・あ~、うん、なんかこんなだった。
こんな感触だったよ、赤ちゃんて。

つるつるして、ちょっとペタペタして
重いのに、軽い。

下の子で考えると
15年ぶりくらいの感触です。


「・・・孫っち、こんな感じなんでしょうね~」


子育ても終盤になってくると、
赤ちゃんは可愛いばっかり。


手のかかる時期を必死で過ごしている時期に比べたら
気楽なものです。


嫁や妻の役は、本当に向いていなかったと痛感していますが
母親になったのは、自分にとっては良い経験になったと思います。

少なくとも、低い鼻っ柱は折られました。

それまで、自分で努力さえすれば、
がんばりさえすれば
なんとかなってきたことが

自分がどうあがいても
どうしようもないこともある。

受け入れて、その上でどうしていくか。

それに目が行くようになったからです。

だから、うまくいかない人を一概に責められなくなりました。


利発で、快活で、性格も良く
誰にでも好かれ、
いかにも世の中の役に立っていけそうな子。

そういう子が、俗にいう「子育ての成功例」だとすれば
いかにそれを目指していくかが「親力」みたいなものかもしれません。

・・・でもな~。工場で饅頭つくるようなわけにはいかないんですよ。

これさえしとけば、というマニュアルどおりにはいかない。

だって人間だもの。

親である私が100点じゃないのに
子どもに100点であれ。

っていうのは、どうも合わなかったのです。

仕方がない。私が親だもの。

東大に兄弟を何人も送り込むほど敏腕ではありませんが
うちの子は、華やかな「良い子」ではなく
なんだかほのぼのした「いい奴」にはなってくれました。

女子にはモテないけど、猫にはモテています。


へなちょこな母親ですが
子どもを育てるのって、盲導犬のパピーウォーカー的なものかと思います。

子犬の時に、愛情をたくさんもらって
人間を好きになって、
そして「盲導犬として合格」すれば盲導犬になればいいし、
盲導犬にはなれなくても、また別の生き方がある。

産みはしたけれど、実は「預かり物」で、
ましてや所有物ではないのかもしれない。

「子どもが生まれれば、親にはなれる。
でも、親であることは難しい。」

大学の時に先生に言われた言葉です。
これだけは覚えています。授業の内容はほとんど忘れたのに。

子育てをしていると、
自分の子ども時代の古傷に向き合うことも多い。

私は褒められたこともないのに、
褒めろとな?とか。

でも、自分が子どもの頃
大人に言われてた嫌だったこと、されて嫌だったことは
「私はやらないぜ」って決めることはできるんですものね。

褒めることは苦手でも、
【ねぎらう】くらいはできそう。

ねぎらってもらったら
「なんだかんだいっても
ちゃんと見てるんだな」って実感しますしね。


前回のブログに、胎児性水俣病の娘をお風呂に入れる母親の写真のことを書きました。

あの時に思ったのは、同じ境遇だったとして

私の母は、同じようにしてくれただろうか。
私は、我が子に同じようにできただろうか。

それは、どこかハッキリ言えないのに

強烈にあったのは

「こういう風に、どんな私でも
好いてくれたらどんなに嬉しいだろうか」
という思いでした。

世の中の役に立つとか
必死で頑張っているとか

そういう目に見える
分かりやすい「意味や意義があるから」ではなく

無条件に好いてくれる、
お前は、生まれてきて、生きていてOKなんだと。
例え、他所の人がどう言おうとも、
私は、お前が大切なんだと。
そう断言してくれる。

その存在がどんなにありがたいか。


ユージン・スミスの「入浴する智子と母」の写真を見て、
状況は大変なのに、同情するとかのレベルじゃなく、

胸をよぎったのは
強烈な羨ましさだったのかもしれません。


子どもは、饅頭工場で合格品をつくるようなものじゃない。

親の成績表でもない。


生きている「意味が(今は)よくわからない」ことは
(イコール)生きている「意味がない」とは絶対に違う。

しかも、それをどうして誰かにジャッジされなければいけないのか。

自分が「意味が理解できない」だけで、
「意味がない」と決めつけて。

それじゃ、相模原障がい者殺傷事件の犯人と同じです。

私たちは何もかも理解できているわけではない。

それなのに
「意味」ばかり考えて、
ジャッジして。

目に見えることばかりが
人の「役に立つ」じゃない。

日の当たるところで頑張る人も、
人知れず、がんばる人もいる。

役に立って偉いとか、
頑張ってて偉いと、

他人をジャッジし、
自分すらジャッジし

存在理由や生存理由まで判定されるんでしょうか。

でも、それって
お互いがお互いを見張り合うような
ギスギスした世界になりかねない。

役に立ってないと、
いかにも頑張ってないと、
好いてくれない世界で
私たちは
いつ心から安心できるんだろう。

理屈抜きで、
損得なく好いてほしいのは

きっと、大人も子どもも同じ。

皆、冒頭の赤ちゃんみたいに
意味があろうがなかろうが

ニコニコ笑っていたはずなのに。

生まれつき
おとなしい赤ちゃんはいても、
根暗な赤ちゃんはいない。

皆、ニコニコ笑っていたはずなのに。

じわじわできた傷は

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


○○豪雨と後に名前がつくような
猛烈な雨が降り、甚大な被害が発生する恐れがある。

その言葉通りに、ここ数日のひどい雨。
各地から被害の様子も
次々と報道されています。

大分県北で集中して降れば、
報道を見て心配した福岡や大分市の友人が
大丈夫かと連絡をくれました。

ところが、
その数時間後には
その友人のところの方が
危ないことになっている。

2012年の九州北部豪雨では
本当に身の危険を感じるような思いをしました。
あんなに雨音が怖かったのは
生まれて初めてでした。

見慣れた青の洞門付近の風景が一変し、
川沿いのレストランの中に
濁流が渦を巻く様子に愕然としたことを覚えています。

あの滝つぼの中にいるような雨の中、
実は母から電話がかかってきたのです。

「大丈夫~?」

ところが、人間、本当に怖い思いをしている時
大丈夫かどうか、こっちが聞きたいくらいなのです。

とはいえ、母に言ったところで
雨が止むわけでなし。

とりあえず、状況を説明すれば
余計な心配かけるだけなので
(今のところ生きてるし)大丈夫」とだけ言って電話を切りました。

ああいったことがあってから、
遠くに住む友人に
今回のような大雨や災害があった時
実のところ、なんといってよいのか分からなくなりました。

大丈夫?と聞いて
大丈夫じゃない時、
なんと言ってよいのか。

それは、大事な人を失って
泣いて悲しむ人に言葉が見つからないような
あの感じに似ています。

お腹の底で
その悲しさがギューと伝わるような感覚はあっても
それを言葉にしようとすると
どうも違う。

うまいこと言おうとする
イヤらしい感覚も出てくるし
何を言ったところで、かもしれない。

そんな時、本当に
自分の言葉の拙さに嫌気がさしてしまう。

大学時代からの腐れ縁の友人2人に
「大丈夫か? 無事を祈ってる! 困ったら何なりと!」
と送ってはみたのですが、
1人からは返信がないので、

本当に今はそれどころではないのかもしれません。

脱炭素化社会、って言葉をよく聞きます。

マイバック、ゴミの分別、etc.

細々できることからやる、のは
とてもよくわかる。

でも、

何十年に一度が、来年も来ないようにするには
どうしたらいいのか。

起こった結果のメカニズムは
どこかの専門家が説明してくれても、
来年、また「何十年に一度」が来ないようには、誰にもできない。


ふと、ハチ(元野良猫)
家に迷い込んできたときのことを思い出します。

ハチの脇には、輪ゴムが食い込んで
えぐれてできた傷があったのです。

猫のケガ
推測ですが、何かの拍子で輪ゴムが脇にかかったまま、体が大きくなったみたいで。
首にもゴムのカスがついていたので、取ろうとして取れなかったのかもしれません。
ゴムと言えども、食い込んで、ぱっくりとした深い傷になっていました。


避妊手術をかねて、動物病院に行ったとき
言われたのです。

じわじわできた傷は
じわじわ治すしかない。

いつの間にか、ひどいことになっていた
深い傷。

同じだけ、辛抱強く
良い方向に向かって取り組んでいくしかないのかもしれません。

環境もだし、
体もだし、
心の傷だってそうなのかもしれない。

それでも、毎年こんな雨は
勘弁してほしい。

AIに仕事を奪われる話だけでなく、
こんな時ほど、ぼんやりとしたエリアメールではなく、
ピンポイントで、
「今、あなたが危ない!」をAIには教えて欲しい。

「今までに経験したことがない」が起きるなら
膨大なデータの中から、
どこにどう逃げればベストか
そういうことこそ、AIに教えて欲しいくらい。

AIに頼りたくなってしまうのは
便利に慣れてしまって、
虫の知らせ、の感覚が鈍っているんでしょうか。

じわじわ傷が深くなる前に、
このままじゃ「ヤバい」と感覚的に分からないと
いけないのかもしれません。

なんでも、ほどほどにが
一番かも。