プレゼント

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん

今年も、追い出されるように年末を迎えています。



子どものころって

クリスマスも年末も、

お正月だって楽しみで

その行事行事の間も、かなり余裕があったように感じていました。

ところが、大人になると、

クリスマスが終わった途端

なだれ込むように年末を迎えます。



子どものころより時間の流れが早く感じるのは

「トキメキがなくなったから~」

・・・と、テレビで言っていましたが

・・・そうかな~ぁ?


チ■ちゃんには叱られるかもしれないけれど、

好奇心旺盛な大人でも

ときめいたり(←恋ではないが?)、ビックリしたり

面白がったりしてても、あっという間!、ですよ?



ときめく以上に、やっぱり

「やらねば」と思っていることが多すぎるのです。



クリスマスも、お年玉も

与えるばかりで、もらえないですしね。



ところで、そのプレゼント。



「いい子」に届く、プレゼント。



・・・「いい子」ってなんだろ?



「いい子」が、大人の都合の「いい子」でないことを

祈りたいところですが

「いい子」じゃない上に、オバちゃんじゃ

プレゼントは、図々しいってところでしょうか?


ところが、こんな詩がありました。

作者不詳なのですが、ちょっとご紹介。
(知ってる!って方も、おられるかもしれませんね~。)

ちょっと(心が折れそうになるほど?)長いので

全文は追記に載せます。





【あらすじ】
不思議な銀行があります。


その銀行は、毎朝あなたの口座に、
86400円を振り込んでくれるのです。
老若男女、貧富の差を問わず、公平に。


ただし、ひとつだけルールがあって、
その日のうちに使い切ること。


あなただったら、どうしますか?
きっと、毎日、全額を引き出し、
その日のうちに使い切るのではないでしょうか?


私たち、一人一人に与えられる、86400円。


これは、実は「時間」のことなのです。


目が覚めて、与えられる86400秒の

「今日」という「時間」。


限りある「時間」をどう使いますか?


人を憎むことや、恨みつらみに使いますか?


どうせなら、誰かを笑顔にしたり、
温かな時間につかいますか?



『時間旅行』~Present~


【以下、本文途中より】


「一年の価値を知りたければ、落第した学生に聞いてみなさい」

「一か月の価値を知りたければ、未熟児を産んだ母親に聞いてみなさい」

・・・・・途中、略(ホント、心が折れそうになるほど長い~)・・・・・・・・・

時計の針は、
刻一刻と走り続けています。
決して、
私たちを待ってはくれません。
だから、「今日」を大切にしてください。
「今」を心から味わってください。


「Yesterday is history」
昨日はもう過去のこと。


「Tomorrow is a mystery」
明日はまだ未知のもの。


「Today is a gift」
今日は神様からの贈り物。


だから英語では
「現在」のことを
「プレゼント」(Present)
と呼ぶのです。



クリスマス「プレゼント」は、

きっと楽しい「クリスマスという時間」のこと。



それなら、誰かの「いい子」でなくても、

オバちゃんでも、もらえそうです。



2018年も平成も、いよいよ、「おしまい」。



皆様の、「今」がどうぞ

ステキな時間となりますように!



・・・その前に、その前に、

やっぱり、大掃除だ~ぁ!!!!!

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ちっこい冬便り

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん

洗濯物を干していると、いつもと違う鳥の声がする。

鈴が鳴るような小さなかわいい声がする。

たくさんの小さな声は、

仲間に何かを伝えながら

あちこち移動する。



これは、もしや、エナガかな?


お隣の夏ミカンや柿の木、梅の木と

小さな影たちが移っていきます。


20181214_エナガはどこ?


どこにいるか、分かりますか?


20181214_しだれ梅の木でエサを食べるエナガ達


写真の中には、3羽います。小さい!


20181214_枝にぶら下がるエナガ


ちっこい体で、木にぶら下がって

エサを食べています。


小さな虫などを食べるので

寄っていって長居している木には

きっといますね。・・・虫(汗)。



我が家は、庭に木を植えるのに

できるだけ【病害虫に強い!】木を選んでしまったので

エナガにとっては、

美味しいものが少ない食堂のよう。

・・・結構な素通り率です。

エナガは、他の種類の小鳥と混群となって

その先導をするそうで

チリチリとする声に交じって

シジュウカラがいたりします。

今回、ご一緒だったのはこちら↓

20181214_木にとまるセンダイムシクイ

・・・・ん?

これは、(たぶん)センダイムシクイちゃんではないか??
(ムシクイの仲間は、4種類ほどいるそうですが、なかなか見分けるのは難しいそうです。)



そう、以前ハチ(元野良ネコ)が捕まえて

保護したセンダイムシクイ

山に放したあの鳥です(たぶん)。



20181214_梅の木にとまるエナガ

本当に何度見ても、小さくて丸っこくて

エナガって、可愛い~!


お家に呼んで、長居してもらうには

おいしいエサのいる木を植えなければなりません。

20181214_エナガ
エッヘン!←?



森や雑木林が好きで、木をたくさん植えました。

あとあと考えれば、

野鳥たちの「場所」を「家」にしちゃったような気がしていたので

半分、罪滅ぼしにもなりました。


どこかのお家が木を植えることで

彼らの「安全基地」だったり

「食堂」になったりする。



コンクリで埋めてしまえば「手間いらず」ですが

それ以上に大切なことまで

無機質に飲み込まれてしまう。



自然が好きで、木が好きで

自然素材で家を建てました。

後悔しない家づくりができたかといえば

やっぱり色々思うところはあります。


完璧な人なんていない。私も含め、です。


なんかかんか、ある。


でも、やっぱり木が好きだし

自然が好きです。


だからこそ

草一本生えることを許さない庭は、

生きるものの気配がしない庭は、

ちょっと違和感があったのです。



犬好きといいながら、

病気や散歩に行かなくていいし、死なないからと

本物の犬よりアイボを選ぶような。

花が好きだと言いながら

枯れて醜くなるのを嫌って

生花より造花を飾るような。



そんな違和感です。



手がかかるから、生きてる。

迷惑かけたり、かけられたり。

お互いさまだもんな~。

悲しいけれどデザインとアートは違うんだもんな

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


縁あって、今、障がいのある子どもたちの

アート活動のお手伝いもやっています。



活動時の見守りも、なのですが

私の拙いお世話ぶりはともかく

基本は、できあがった子どもたちの作品を

ポストカードやなんかにするときの

illustrator(画像処理ソフト)要員、でもあります。



デザイン業は、よほどの才能でもない限りは

目立たない地味な、時間ばかりかかる割に

儲けも生産性もないような仕事でもあります。

そのうち、売れるデザインのパターンを読み取ったAIに

とって代わられることも十分あるような仕事です。

だって、どんなに時間をかけてようが

心をつくしてようが

だから良い!なんて代物ではないからです。



「がんばって作りました」「心をこめてつくりました」

・・・なんて、うっとおしいだけ。

それが加点されるなんて

小中学生までの話です。



最近、そういった子どもたちの

「何者にもとらわれない」「誰がなんといおうが」といった

エネルギーの爆発のような【アート】(←この言葉はあまり好きではないのですが)を見ていて

つくづくアートとデザインは違うんだもんな~と実感します。



アートは、「自由」であり、「個人の表現」であり

「エネルギーの爆発」であり

そこに、他者のうんぬんは基本的に介入されません。

一方、デザインはやはり、「つたわること」「つかえること」といった

役目のある美術です。



また、それが売り物になる以上は

どこか商売臭い雰囲気が否めませんし、

クライアントの意向を完全無視もできません。



私は今、もくせい工舎のお手伝いしかしていませんが

普通の広告会社に勤務なら

そのクライアントの売る製品を

気に入るとか気にらないとかで

仕事を選ぶわけにはいかないと思います。



例えば、化粧品の広告を書くとして

それが本当にお肌がきれいになるのか分からなくても

「仕事」として遂行せねばなりません。



「意向」に沿い、最善のものを探り

OKをもらって、それはようやく表舞台に出ていくのですが

デザインをした「私」の

純粋な意味での【作品】とは

言いにくいところもあります。



反対をいえば、個人の完全なる「作品」でないから

「ちょっと!広告には良さそうなコト書いてあったのに

全然違うやん‼」

と言われるのは、広告にOKを出したクライアントであり

過大広告にならないよう配慮したり

品質やトラブル時の対応を考え直さねばならないのは

クライアントであるメーカー側です。

広告を書いたデザイナーが

その商品の品質や、対応の悪さまで責任を負う必要は全くないのです。

流石に、お門違いの話。メーカーの本質、品位、人間性の話です。



とはいえ、作り手である以上は

作り手の本能のようなものがある。

それが、自分の【作品】といえなくても

作る以上は、最善を尽くしたい思いがある。

それは、

有償でも、アート活動のような無償(ボランティア)でも

名前がでようが、でまいが

関係なく。

作り手、っていうのは

どんな小さいことにも、

手を抜く、っていうのはやっぱり違うし、

できないんだと思います。



ありのままを赦してもらえる【アート】と、

【アート】のようでありたいと思いながら

それがかなうとは限らない【デザイン】。



失恋や片思いばっかり。

でも、つくる。

だって、本能だから!

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