お風呂の栓は、しましたか?

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


先日、ネットである記事を読んで驚愕しました。

それは、お風呂の自動お湯はりに関するもの。

お湯はりの自動のボタンを押して、「最初に少し水が出た後、一時停止するのは故障か?」との問い合わせに、
メーカーが答えた内容が元でした。

(わが家のお風呂は、10年以上使っているものなので、最新型はどうか分かりませんが)
確かに、早い段階で、一回止まる。

お風呂の栓をして、【ふろ自動】のボタンを押すと、

「お湯はりをします。お風呂の栓は、しましたか?」と音声が流れ、

ごぼごぼごぼごぼ...っとお湯が出だす。

数秒すると、一度止まるのですが、また続けてお湯が出だして、

指定位置までくると

「お風呂が沸きました」と知らせてくれるタイプです。

その記事は、わが家とは別メーカーのもの。

(メーカーによるのかも?ですが)
その最初にでるお湯は、配管に残っていた水なので、そのまま溜めない方がよいというものでした。


・・・・え~⁉・・・溜めてたよ?そのまま。
10何年も!

だって、最初に言うんだもの。

「お風呂の栓は、しましたか?」って。

「まずは、最初の水は流してください。それから、栓をしましょう」なんて言わないよ??

上記の記事の該当メーカーの説明書には、よく見ると書いてあるそうなのですが、
わが家の給湯はダイキン製。

・・・う~ん。そんなこと書いてないみたいなんだけど。

ネットでダイキンのQ&Aを見ても、「お湯はりが途中で止まった」の問いに、
「お湯はり完了までに、お湯はりと停止を繰り返す」との答えで、

最初の水は捨てるべし!とは出てこない。

ダイキンのAIチャットで質問してみるも、日常のお手入れとしての配管洗浄のページは出てきても、
やっぱり、最初の水は捨てよ!とは出てこない・・・。

う~ん。
メーカーによるのかもしれないが、
あまり気持ちの良い話ではないような。

だから、わが家では、

「お湯はりをします。お風呂の栓はしましたか?」と聞かれるのを、

あえて無視して、数秒栓を抜いたままにし、

水が一時止まったところで、シャワーで洗い流す。

その後、栓をして、給湯。

・・・としています。


最初に一時止まって見えるのは、お湯がないから「故障かな?」と気づきやすいだけで、

きっとお湯が溜まるまでは、

お湯の中で、出たり止まったり繰り返しているものなんだろうなと思います。
分かりにくいから、気づかないだけで。


とはいえ、私と猫以外、男ばかりのわが家。辞めた【便利機能】は他にもあります。

既に張ってあるお湯を循環させて温めなおすという【追い炊き機能】。
これもなんだか、あんまり清潔じゃない感じがして、使わないことにしました。

・・・すると、パイプユ●ッシュしても、変なビロビロが出てこなくなった。
(・・・いったい、毎日何に浸かってるんだか分かりゃしない。)

それで考えると、お湯と水を混ぜるタイプだった以前のお風呂は、
便利が過ぎない分、良い点もあったのかもしれません。

熱すぎたり、冷たすぎたり、入れすぎたりはあっても、

パイプの中まで気にしなくて良かったので。


台所の換気扇も、単純な作りの方が掃除がしやすかったりして、
便利が故の構造の難しさに泣くときがある。

システムキッチンのレンジフィルター奥の、
絶対手が届かない配管ダクトの中身を想像すると、

きっと汚れてるんだろうけど、どうしようもない。

掃除のしようもなくて、途方に暮れるのです。


う~ん。便利になるほど、構造や仕組みは、複雑になる。

複雑になるほど、素人じゃ、手におえない部分がでてくる。

ちょっとしたジレンマかもしれません。
(洗濯槽のカビの心配か、いっそ、たらいで洗濯か、みたいに。
洗濯だけに、難しい選択です。)



「お湯はりをします。お風呂の栓はしましたか?」

そう、声掛けしてもらう過剰な親切を他所に、

今日も又、完全無視の自己流で風呂を入れる日々なのでありました。


何でも自動化すると、退化しちゃうような気もしたり。しなかったり。

自然素材の家のもくせい工舎・お風呂
(※わが家のお風呂ではなく、同年代くらいのものを参考に載せています。)

おやくにたつ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「大人になったら、人の役に立つ仕事がしたい」

そう聞くたびに、ひねくれものの私は考えてしまう。

では、逆の「人の役に立たない仕事」ってなんなのか、と。


PTAの出事で、あるお母さんが仕事で来れないと聞いて、

「あのひと、そんなたいした仕事しよるわけや、ないんやろ?」
そう発したひとがいました。

彼女は、当時小学校の主幹教諭で、【良い先生】で有名な人でした。
バリバリに活躍されて、今は立派な校長先生になっておられます。

忙しい最中、自分だってこうして来ているのに!そう腹が立ったのかもしれません。
PTAの出事なんてめんどくさいですから、逃げてずるい!そう言いたかったのかもしれません。

・・・しかし、なんだろうな、このやるせない感じ。モヤモヤくる感じ。

自分の仕事に誇りを持つことと、貴賤をつけることは違う。

誰かが自負する【たいした仕事】【立派な仕事】を支えるために、
誰かが言うところの、【たいしたことない仕事】をしている人がたくさんいる。

取りざたされることもない、スポットライトも当たらない場所で、
縁の下で支える、目立たない仕事をする人がいる。

言い方をかえれば、

あなたが【たいしたことない】という、雑用をせずにすんでいるのは、
そういう仕事をしてくれる他者がいるからだ。

それを後々、何度も思い返しては、
あぁそうか、自分はそれでモヤっときたのかと反芻して、飲み込むことがあります。

パッと、言い返すタイミングも、勇気もなかったんだから、自分だって同じ穴のムジナなんです。


【人生の目標】に向かって、日々努力して、誰もが認める【たいした仕事】に就く。社会で活躍する。

そういったものを理想として押し付けられて、息ができなくなる子が多いような気がします。

それは、子ども達だけでなく、言ってる側の大人をも、じわじわ蝕んでいく。

誰かの役に立たないと、生きている意味がない。

誰かに迷惑をかけるなら、生きている価値がない。

それは、自分に掛ける、子ども達に掛ける、呪いのようなもの。

どんなに【立派】な仕事で【活躍】していても、誰しも老いは避けられない。

耳は遠くなり、足腰は弱り、日常に支障をきたせば、
誰しも加齢とともに、障がいを持つ。

誰かに頼らざるを得なくなった時、言うのだろうか?自分に。

存在や生きていることに対して、「たいして役に立たんのに、居る意味、ある?」と。

分かりやすく【役に立つこと】でしか、自分の存在価値を見出せないと、
いつか自分の存在価値を疑うようになる。

生きている【意味】を、【価値】を、疑うようになる。

冗談じゃない!

そんな分かりやすい【意味】ばかりであってたまるか!

ましてや、他人に、他人様の目に、なぜ決められなければいけないのか。

その際たるものが、相模原市のやまゆり園で起きた事件だったと思うのです。


解剖学者の養老孟子先生が、著書やYouTubeなどで興味深いことを仰っています。

それは、子どもや、社会的弱者に関することでした。
詳しくは、
『猫も老人も、役立たずでけっこう』著:養老孟子 P.106~
YouTube
『【養老孟子】あなたたちが生まれてきた意味は●●しかないですよ。子どもが生まれるときのことを考えてみてください』などをご覧ください。


以下、ざっくり、私の理解の範囲です。

子どもというものは、【自然】そのもの。

山の木や、草と同じように、

人間が、考えて、作って、置いたものではない【自然】そのものなんだと。
私は子どもを産みましたが、例えこの先彼らが禿げても、髪の毛一本用意できない。
つまり、わが子であっても、私には【自然】そのものは作れないのです。

ところが、戦後、どんどんどんどん、都市化が進むにつれ、【人工】のものが増えていく。

【自然】と対極にある、意味で満たされた【人工】のものに囲まれていると、
本来【自然】な存在である人間に対しても、意味が必要になってくる。

例えば、川に、大きな石がある。

そのことに、何の意味もいらないのに、

職場のデスクに置いた途端、置く【意味】を必要とする。

そしてそういった、ああすればこうなるといった、【人間の意識】にまみれた世界は、

よく分からないもの、不確定なものを嫌い、避けようとする。

育てたところで、どうなるかわからない【自然】な存在、子ども。

それをリスクとしてしかとらえられないのは、【人工】の【意識】で考えているから。


自分の存在価値に自信を失って、生きていることを辞めるのは人間だけ。

それは、人間には知恵があるから?

そうなんでしょうか?

養老先生の話を聞くと、そもそも、人間だって元々【自然】そのもので、
不確定で、分からないこともあるのを、忘れているだけなのかもしれない。


ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる。

それがうまくいくうちは、良いんだろう。

でも、生きていれば、こんなはずじゃなかったと思うことも多々ある。

それは、まさしく、人間が、子どもも大人も含め、本来【自然なもの】ということではないでしょうか。


自分の人生ですら、上手くコントロールも取れず、
自分の人生ですら、【正解】が分からないのに、

誰かの人生を、ああすればこうなるなんて言えない。


自然を見ていると、分かりやすく【役に立つ】ばかりが、全てでないことがよく分かる。

一見、意味の分かりにくいことも、何かの大きなつながりの中で、
影響し合って、何らかの流れになる時がある。

人知れず【役に立つ】意味が、可能性が、内包されているのに、

勝手に貶めるのは、傲慢なのかもしれない。


だから、子ども達よ。怖がらないでほしい。

世の中には、【人の役に立つ】分かりやすい仕事と、そうでない仕事があるだけで、

それが影響し合って、支え合って、網目のように世の中を支えていることを知ってほしい。

中学で、職業一覧で表示される仕事なんか、ありとあらゆる仕事のうちの一部に過ぎない。

だから、その中から、さぁ選べと言われて、ピンと来なくても当たり前なんだということに。

例え、会社員になったとしても、世の中にはこんな仕事もあるのかというくらい、多岐にわたる。

どんな仕事についても、犯罪に加わらない限り、そこに何の貴賤も、差もないし、

まして、役に立つかどうかが、あなたの存在価値にはならないことを、

見極めて欲しいし、知っていてほしいと、思うのです。

人間を機械の部品に例える人もいるけれど、

うまくいえないけれど、目の役目の人、脳の役目の人、手の役目の人、足の役目の人がいるんだと思う。

脳だけでは何もできないように、
手だけでは何もできないように、

そして、そういった目に見えやすい働きだけでなく、

消化酵素や、神経伝達物質のように、
見えにくいけど、無いと困るもののように、

そういった、目立たない仕事をする人がいるんだと、

今は思っています。

だから、役に立つかどうかを含め、【分からない】ことを不安に思いすぎることは
辞めていいんだと思うし、そう信じています。

目立たなくても、大切なのです。

目立たなくても、大切

炎のある暮らし

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


・・・すごい雪でしたね。

雪景色1

昨日から、じゃんじゃん、じゃんじゃん降り積もり、
このブログを書いている間も、まだ降りやまぬ様子。
(まだまだ、明日、明後日くらいまで降るようですので、どうぞお気をつけてお過ごしください。)

これだけ降っているのに、律儀に遅れることなく投函されていた新聞に頭が下がる。

いったい、何時に届けてくれたんだろうかと思います。

燃えるごみをまとめて、踏み出した銀世界はキラキラ眩しくて、神々しい。

雪が止んだ朝の晴れ間に、東からお日様が昇ってくる様子は、

雪景色と日の出

なんだかとても、静かで、荘厳な、美しい景色でした。
(本人は感動しきりでしたが、真っ白な雪の、荘厳な光の道を、オバちゃんが、おっちらおっちら、生ごみを捨てに行く、の図。
・・・はたから見たら、あまり絵にならんかもです。)

雪景色2
枝に細かく雪がついて、キラキラして。まるでクリスマスツリーのようです。

雪景色3
絶妙なバランスで積もった、物干しの雪

雪景色4
こんな細い枝の、こんな小さな分かれ目にも、雪がちんまり積もっています。

雪景色6
残っていたマユミの赤い実が、雪に映えます。

雪景色7
庭に勝手に生えてきたニラの花のようなもの。ほったらかしにしていた花柄に、雪が積もっていました。

雪は大変だけど、こういった、たまにしか見れないキレイな風景は、
汚れちまった悲しみ(中原中也的な?)を、少しは整えてくれそうです。


雪国に比べ、平地で積もることは多くなくても、やっぱり冬はキンキンと寒い。

そして、今頃のような寒い時期に、神社などに行くと、境内に焚火があって、温まることができます。

神社の焚火

手をかざして温まってみると、その独特な温かさに驚きます。

日頃、火にあたる機会がなく、当たったとしても電気ストーブ。

じりじり、皮膚の表面だけ熱くなるようなそれと違って、

炎の温かさというものは、体の芯からヌクヌクとしてくるような不思議な温まり方。

そして、揺らぎ立つ、踊るような炎の動きを、
手をかざしながら見つめていると、何とも言えず落ち着く。

波の音や、木の木目。一定なようで、少しずつ違うものに人は癒されると言いますが、
炎の動きも然り。

同じようでいて、少し違う。

暖炉を模した電気ストーブなども売られていますが、
表面だけ、炎の動きを映していても、

やっぱりパターンがあるし、第一、温もり方が全く違う。

炎って、自然な癒しでもあるんだなぁと実感した次第です。


築ウン十年、山の中のもくせい工舎・永家邸には、薪ストーブがあります。

「見せて~」といえば、見せてもらえると思います。

あたりまえのように、炎が身近にある暮らしをしています。

OB様の中にも、薪ストーブを設置されている方が数軒いらっしゃいます。

もくせい工舎の家は、断熱性能がかなり高いので、逆に温まり過ぎないかと思ってしまいましたが

自然素材の家と薪ストーブ

暖房器具としての役目だけでなく、あの独特の体の芯から温まる感じや、

炎の揺らぐ、光の優しさ、多幸感みたいなものは、何とも言えない。

そしてまた、薪ストーブには、自然素材の家がよく似合う。


代表が、大工さんの手を借りずに、ほぼ一人で建てた土壁の家。

土壁の家

ここの2階にも、薪ストーブがあります。

土壁の家の薪ストーブ

つけていれば、下の階まで温かい。

土壁の家の断熱材は、もくせい工舎のお家と変わりませんから、
どんなものか一度見てみるのもありかもしれません。

体の芯から温かくて、シアワセな風景ですよ~。

自然素材の家で炎のある暮らし