目立たぬ花にも

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


3月に種を蒔いたものが、芽を出しました。

発芽 

何の種でしょう。

答えは、吾亦紅(ワレモコウ)です。

ワレモコウ

開花時期に、見学会などがあると、
自宅から切ってきて、飾ります。

永家Tさんの、好きな花でもあります。

このワレモコウ、なぜか、あまり苗が売られていないのです。

わが家にあるものも、たまたま、JA耳納の里で見つけたから
購入できたのですが、あれ以来、売っているのを見たことがない。

通販でも売られていますが、送料もそこそこかかるので、
なかなか手が出せないのでした。

春先のワレモコウ
もっさもっさしてますが、春先のワレモコウの様子です。

ワレモコウは、秋に、小さな楕円形をした深紅の花をつけます。

それが、風になびく様子がとても牧歌的で、
郷愁を誘う、味わい深い花です。
(難点は茎が長くなりすぎて、風雨の強い時に倒れること。
矮性のコンパクトなタイプもあるようなので、いつか育ててみたいです。)

咲き進むと、楕円形はどんどん間延びしてきて、
にょ~んと長くなる。

そのまま放っておくと、茎に付いたまま、
カラッカラッに乾きます。

そのカラカラに乾いたものを、冷蔵庫で保管しておいて、
2~3月に種を蒔いたものが、最初の写真でした。

当初、出てきた双葉にガッツポーズをしたものの、
もしかしたら、混じっていた雑草の芽では?

「おっきくなれよ~」と声をかけ、水を撒きつつ、
せっせとオオイヌノフグリの世話をしているんだったらどうしようと、

半信半疑だったのです。

その双葉に続き、出てきたのが、これ!

ワレモコウの芽

真ん中に、ギザギザした小さな葉っぱがあるのが分かりますか?

ワレモコウの葉

このギザギザした、ワレモコウの葉を小さくしたら、こんな感じでは?

・・・これは、大丈夫なんでないの?

うまくいったら、ちゃんと苗になるんではないか?

元々、野山に咲くような花らしいので、
私でも、大丈夫・・・かも?

うまくいったら、またお知らせしますね。
(一年経っても、音沙汰のない時は、察してくださいませ。)


春が来て、庭先が賑やかになってきました。

ナニワイバラ
可憐で狂暴・ナニワイバラ。蜂のごはんになっているのを見ると、少しはお役に立てて良かったなと思います。

モミジの花
目立つばかりが花でなし。こちらはモミジの花。

コマユミの花
樹形が優しく、秋に鮮やかな赤を放つコマユミ。滋味深い花をたくさんつけています。

コマユミの花
アップで見ると、独特の形。ペタペタして、カタツムリの触覚のように見えます。

地味な花ですが、小さな蜂がたくさん来て、好評の様子。

秋になると、赤い実がなって、ジョウビタキが食べに来ます。

  • コマユミとシジミバナ
  • コマユミの実
  • コマユミの木とジョウビタキのオス

シジミバナ
シジミの中身のような、シジミバナ。

八重のモッコウバラ

八重のモッコウバラもエンジンがかかってきました。

八重のモッコウバラ

こちらは、パーゴラの立派な日陰となるよう、頑張ってもらいたいところです。

目立つものも、目立たないものも、
それぞれの役目がある。

粛々と全うしていく。

自然に、教えられることが多いです。

吾亦紅の花言葉・感謝
【吾亦紅の花言葉】
「愛慕」「移りゆく日々」「感謝」「変化」「物思い」「憧れ」

目には目を 木には木を?

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


若いころは、眼鏡とは無縁の生活でしたが、子どもを産んでくらいから、どんどん目が悪くなりました。

特に乱視がひどくて、ものが二重に見える。

カラスが、平行して四羽、飛んでいるのかと思ったら、
よくよく見たら、二羽がダブって見えていた、なんてことも度々です。

ぼんやりとは見えていても、確信が持てない。

そのせいか、はっきり、くっきり見える【視認性】が高いものを好むようになりました。

服装にしてもそうで、はっきりくっきりがありがたい。

「色白は七難隠す」というけれど、あいにく、隠せる白さを持ち合わせていない私は、
年々、くすみもひどくなる。

そうなると、くすみカラーとか、グレイッシュなんてもってのほかで、
なじむというより、同化してしまって、
どこからどこまでが顔で、服なのか見分けがつかない。

くすんだ私に、くすみカラーなんて、【視認性】が低いにもほどがあるのです。

くすみカラーが似合うとは

明るい、気分が晴れるような色を選ばないと、
よけい気が滅入るので、自然と、そういった色を着る。

トシをとると派手になるのは、こういった理由か!と、
最近になって実感した次第です。


さて、今回は、そのはっきりくっきり見える【視認性】に関するお話。

先般、ずっと気に入って使っていた掛け時計が、天寿を全うしました。

木の壁に青い時計

20代のころ、1000円くらいで雑貨屋で買ったもの。

青で、真四角(意外に少ない。)なのが気に入っていて、結婚してからも
アパートの居間で、わが家の(割と、どうでもいい?)歴史を見守っていたのでした。

家を新築するにあたり、実は木のおしゃれな時計とバトンタッチを考えていました。

ところが、

木の壁に木の時計
(画面で見るより、実際はもっと同化)

・・・木に木が、馴染みすぎて、同化してしまう。

せっかくの、木の時計なのに、その良さが伝わらないのです。

漆喰の壁に木の時計

これが、漆喰壁が背景だと、くっきりする。

木に漆喰という、異質なものを背景にすると、
ぐっと、木の時計が引き立つ。
 
色味も似通っていないので、くっきりはっきり、視認性は高くなる。
目立つのです。

とはいえ、使いたいのは木の壁の場所。

結局、この木の時計は、別の部屋で使うことに。・・・もったいない。


木の色味の反対色は、青系なので、やっぱり青は、雰囲気が締まります。

できたら、5,000円いかないくらいでないかしら。振り子時計なら、なお良いんだけど。

しかし、良いものは、やっぱり高いのです。

これでも十分では?と買ったものが、こちら。

木の壁に青い時計

悪くない。悪くないんだけど・・・なんかフツーというか、おもしろくない。
味わい深くない。

結局、予算面で一度は断念したのですが、
本当に欲しい時計を掛けました。

キコリさんの青い鳥の振り子時計

キコリさんというメーカーの、青い鳥の振り子時計です。

青い鳥の部分が振り子になっていて、エサをついばむように動くのです。

キコリさんの青い鳥の振り子時計


キコリさんの青い鳥の振り子時計

青の丸い時計は、台所でテキパキ動いてくれています。

仕事しながら、ふと目線の先にあるのは、
のんきに、ゆっくり動く、振り子の時計です。

たったそれだけなのですが、本当に好きなものが横にあることが、
ありがたい。

ずっと、何十年も使うと思います。

木には木が似合います。

そして、どう生かしたいかで、何を選ぶかが違ってきます。

良いものを長く使うつもりなら、
トシをとった後、見えやすいか?も意外と大事ではないかと思います。

コスパ、コスパと気にしながら、
しっくりこないものを使うより、

実は、本当に気に入ったものを長く、大事に使うことも

費用対効果が高いのではないか、と
何度か失敗してみて、ようやく分かりました。(トホホ)

はっきりくっきり

のびしろ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


最近は、こんなところに?と思うような場所にも、
沢山カフェができています。

こんなところに?と思うような場所には、

そう思っても足を運びたくなるような、
プラスαの魅力や理由があります。

古民家を改装していたり、癒される自然があったり、
店主さんのこだわりがあったり。

cafe
(イメージであり、文章の内容とは関係ありません。↑こちらは、山奥の人気カフェ・豆岳珈琲さん。)

わざわざ行くだけの価値があるからこそ、何年も続いているのだと思います。

私は、お店を探すとき、必ず口コミの低い方も参考にします。

口コミの低い内容を見て、自分がさほど気にしないことなら、
良しとします。

反対に、全く悪い評価がない場合は、
その口コミの全体像をサラっと見て、

同じような文体だったり、実体験に基づくものでなかったり、
「友だちが良いって言ってました!」みたいな評価が多い時は、
かなり訝しんで検討します。

特にレビューの投稿者が、その店以外、どこにも評価してない場合は、
サクラの臭いがプンプンする。

細々と、広告や文章を生業にしていると、
なんか臭う?時があるからです。

そうやって、低いレビュー内容をみていると、時々、「愛想が悪い」が出てきます。

う~ん。これに関しては、高圧的でない限りはいいような・・・。

お金を払うだけの、【価値がある提供】をしてくれさえすれば、
過剰な愛想は期待しないからです。

ただ、そういった低いレビューに何と答えているかは、
・・・ちょっと恐々見てしまう。

返事の仕方で、なんとなくお店の姿勢が分かるからです。

売り言葉に買い言葉みたいに、喧嘩腰で返事をしている所は、
おっかないから、まず行きません。
(喧嘩腰じゃなくても、AIなの?ってくらい、機械的に返信してるのも怖い。)

もう、行く前から嫌だもん。

(クレーマー的なのはともかく)少しでもウチにケチつける奴は許せない!って。

どんなにこだわっていても、写真映えしても、
嫌だもん。ピリピリしてそう。

自信やプライドをもって、こだわることはいいけれど、
少しでも悪く言おうものなら、相手が悪い!ってスタンスは、
もう、なるべく近寄らない。
お金払って、緊張なんか買いたくない。

そして、【こんなに頑張っているのにケチをつける人間=敵】だと思い込む背景には、
どこか怯えも見える気がする。

本当に自信がある人というのは、どこか謙虚でもあるからです。


以前、体が動かなくなるまで、夢中でパンを焼いていた時期がありました。

OL時代、休みの度に、遠方(片道2時間)の山奥のパン屋さんまで手伝いがてら、見習いに行っていて、
そこの先生にも

「○○ちゃんは、アイデアはいいけど、手がね~」と言われるほど、
トロくて不器用。

練習しても、練習しても、なかなか上手くならない。

そんな時、大分市内のグロッケンというパン屋さんに行きました。
(現在、古国府から移転されて、錦町に。
ご実家の和菓子店【つるや】を継がれて、その一角に、【グロッケン】のパンコーナーがあります。
巨峰からとった天然酵母パンや、本格的なドイツパン、そして街のパン屋さんらしいパンまで、なんでもあります。
こちらのパン・オ・ノアや、パン・ド・フリュイは、もうたまらんです。)

なんとなく、パンの話になって、フランスパンもうまく作れたことがない旨を伝えました。

その時、そこの店主のおじさんが
「ぼくも、何十年も焼いてきて、これだ!って思えたのも、何回もないよ。
こうやって、商売してても、毎日、勉強!」
と言ってくれました。

中学生のころ、京都奈良に修学旅行に行く前に、美術の先生がしてくれた話を思い出します。

それは、「菩薩」さんの話でした。

菩薩さんも、いつか如来になりたいと勉強している。
自分も、勉強している身なんだけれど、
困っている人がいたら、手を差し伸べ、導いてくれる。

私にとって、そのおじさんの言葉は、菩薩さんの言葉だったのです。

もっと修業が足りない私を、見下すことなく、
自分も勉強中と笑ってくれたことは、どんなにありがたかったか。

いつか、目指すものにたどり着く自信がある人は、
今の力不足を笑わない。恥じない。

この世に、完璧なんてものがない以上、

今、足りないものは、

【見たくもない欠点】か、それとも【伸びしろ】か。


芸術家なら、自分のこだわりを【分かる人間】にだけ売ればいい。

でも、芸術とデザインは違う。

デザインに伴うのは、機能であり、
それの良し悪しは、

つくった本人ではなく、
使った人に委ねられる。

分かる人間にだけ、ではどこか独りよがりになる可能性もある。

芸術作品のように、自分の表現欲に重きを置くか、
あくまで使い手や客あってのものとして、精度をあげていくのか。

カフェにしろ、何の商売にしろ、
そこに使う人がいる以上、それは芸術ではなく、デザインであり、

そう言った意味でも、
こだわりをどう評価するかは、
残念ながら、他人に委ねられる。


芸術とデザインをくっきり分けることはできないけれど、

それでも、あのパン屋のおじさんのように、
みんなに喜んでもらえるよう、勉強して、さらに高みを目指していくのか、

周りは敵だらけと思い込むかは、人によるのかもしれない。

前者が見てるのは、お客であり、
後者が見てるのは、傷ついた自分のプライドとも言える。

見たくもない汚点を、見て受け止め、次につなげる勇気のある人。

その人は、きっと菩薩さん的であるのではと、

レビューを眺めながら、思うのでありました。
(そういう私は、とてもとても菩薩さん的ではないのだが。)

欠けた部分には、可能性