国東半島芸術文化祭!

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


国東半島芸術文化祭に行ってきました。

期間中は、各地でイベントが開催されているらしいのですが、一度には回り切れない。

今回は、「ラバーダックプロジェクト」と「PICFAアートジャンクション」に絞って、満喫してきました。


まずは、ラバーダックを見に、国東市の迫池に向かいます。

日頃は静かであろう《ため池》も、なかなかの人だかり。

お隣の集会所でも、キッチンカーなどが出店していて、お祭りムードです。

第二駐車場となっている旭日小学校のグラウンドに車を停めます。

小学校の裏手から坂道を下って、会場へ。

20251125_国東半島芸術文化祭_ラバーダック
遠目に、ふわふわのトランポリンに見える。

近づくと、おおき~い!

20251125_国東半島芸術文化祭_ラバーダック
背が高い人と比べても、この大きさ!(※人物は加工しています。)

大きいけど、威圧感ゼロです。

20251125_国東半島芸術文化祭_ラバーダック
青空の日で良かった~。黄色が映えます。

私は、鳥のモフモフのおしりが好きなので、裏からも見てみましょう。

20251125_国東半島芸術文化祭_ラバーダック
後ろ姿も、抜かりなく、かわいいです!

大きいラバーダックの可愛さを満喫して、
小学校の駐車場に戻ります。

ここ、旭日小学校は今年3月に閉校したばかりのようでした。

駐車場となっていたグランドの奥に、かわいい建物が見えます。

20251125_国東半島芸術文化祭_ラバーダック_旧旭日幼稚園
何かの工房や、パン屋さんにも見える。赤屋根が可愛い。

近づいてみると、人がいなくなって、ずいぶん経つようです。

20251125_国東半島芸術文化祭_ラバーダック_旧旭日幼稚園
奥の、「トイレ」とか「おてあらい」ではなく、「べんじょ」とひらがなで書かれた看板がシュール。

ここで、親御さんたちが迎えに来たりしている様子を想像して、しみじみ。

ここも、きっと誰かの思い出の場所なんだよなぁ。

致し方ないとはいえ、地域で学校がなくなるのは、寂しいものです。

特に、幼稚園、小学校がなくなるのは。

それだけ、子ども達って、存在自体が「パワー」なんだと実感します。


場所を、鶴川のKITOWA(キトワ)に移します。迫池から、車で10分かからないくらい。

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA
交流拠点施設KITOWA。左がチャレンジショップ棟。

木とガラスで囲まれた、チャレンジショップ棟をショーケースに見立て、

作品が展示販売されています。

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA
PICFA(ピクファ)は佐賀県基山町の障がい者就労支援B型事業所。

PICFAのメンバー20名の、自由でジャンク(ごちゃまぜ)な作品たちが、

見る人の直観と交差する《ジャンクション》となる展覧会。

さっそく、チャレンジショップ棟に向かいます。

出迎えてくれたのは、赤と白のド派手で大きなイヌ!

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本田雅啓さんの作品「スゴクデカイイヌ」。スゴクデカイイヌは、ちゃんと繋がれています。

コーンに「スゴクデカイイヌ」と書いてあって、そのままやん!と笑ってしまう。

楽しくて笑っていると、受付のお姉さんが色々と説明してくれました。

こちら、工事用の三角コーンをビス止めしてつくったもの。

よく犬にしようと思いついたな~と感心します。


場内の全てを紹介できないので、一部ご紹介。

こちらは、一度見たら観たら、忘れられない画風。

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安永憲征さんの作品。左「7人ピース」と右「4人のスーパーモデルで男性と女性」

同じような顔ですが、じわじわ面白い。

浮世絵の良さが分からない私ですが、
こちらは、同じような顔でも、面白い。

題名も、じわじわ面白い。

外国の雑誌をモチーフにしているようです。


お次は、細か~な作品。

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加田有紀さんの作品。左「大きな青りんご」と右「茶ちゃドーナツ」

近寄ると、

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リンゴの中に、リンゴがびっしり。

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ドーナツなので、数は、丸×2。1年がかりの力作!

続きまして、またまた細かな作品。

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笠原鉄平さんの作品「一人一人の生活模様」こちらは、非売品

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この一角だけで400人ほどいるのだとか。人物の被りもなく!

病院の待合室にあったら、退屈しないのに。

延々と見ていられます。

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA
大漁旗のよう!

誰かの「楽しい!」は相乗効果を生み出します。

それは、作る人の「楽しい!」でもあるし、
説明してくれたお姉さんの「楽しい!」でもある。

誰かの心からの「楽しい!」は、こちらまで数倍楽しくなる!

そのお姉さんに何度もお礼を言って、
グッズも販売しているという母屋?へ。

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照明器具がレトロでおしゃれ!

元々は、古城医院という築120年の古民家を改装したもの。

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重厚な玄関は、コアワーキングスペースの入り口。

ドアに近づくと、漆喰と木の匂いがします。

こんな雰囲気お好きな方は、おそらく、
もくせい工舎の家も、気に入っていただけるんじゃないかと思います。

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA

置かれている什器も、アンティークで、良い雰囲気!

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA
表紙もレトロでかわいい。一冊一冊、手にとって見たくなる!

奥に、PICFAのグッズコーナーがありました。

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA
欲しいものが、いっぱいすぎる~。

私は、鈴木靖葉さんの色鮮やかな
「カエルのポストカード」と、

忘れられない画風の、安永憲征さんの『yasunagazine』を購入。

中身をお見せできないのが残念ですが、
家に帰ってからも、見てはニヤニヤしております。

特に、「シマシマの女の人となすび」は、見た瞬間、
肩を揺らして笑うほど、楽しくて!

その場にいた他のお客さんには「?」だったかと思います。

あ~、お見せしたい!

これは、ぜひとも会場と売店で見ていただきたい!

11/30のクロージングイベント(旧旭日小学校)には、作家の皆さんも来場されるそうです。

一見の価値、大ありかと思います。

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA
見ただけで誰の作品かすぐ分かる!

小学生とか、中学生とか、
名画を見せるのもいいけれど、

本当は、こういった自由な芸術に、
どんどん触れるのがいいんじゃないか。

「みんなと同じように」
「誰かと比べて」
「ちゃんとしないと」

そんな概念を、どか~ん!と蹴とばして、
自分の「これだ!」を追求していく。

見ているだけで、楽しくて楽しくて、
凝り固まっていたものがほぐれていく不思議!

大きすぎるアヒル。
スゴクデカイイヌ。

誰かの言う「ふつう」に「ちゃんと」納まるよう、縮こめられていた「本当の自分」が解放されるような快感!

「ジョーシキ」の規格の外の世界は、私たちの閉塞感を救う、大きな力なんだと思います。

11/30まで。ぜひ!

20251125_国東半島芸術文化祭_PICFA_アートジャンクション_KITOWA

#の外の世界

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


前回、過食症と拒食症だった話を書きました。

私は、SNSで個人の発信をしませんが、

#拒食症、#過食症とタグ付けされれば、

それに関連した情報だったり、同じことで悩む人に
気づかれやすくなるのだと思います。

体験談を語ることは、
また、誰かの体験談を聞くことは、

「分かる、分かる」の共感を得られる。

自分一人が苦しんでいるわけではない。

それは、どんなに癒されたり、勇気づけられるか。

同じ悩みを持つ者同士、直接的ではないにしろ、
どこか繋がりすら感じます。


その一方で、私を救ってくれたのは、
子猫のまっすぐな食欲でした。

子猫は#拒食症とも、#過食症とも検索しません。

「生きる意味」や「生きる価値」に悩んで、
自分を傷つけたりしません。

ありのまま、自然なのです。


つまり、#の全く外側にいた存在が、
私の目を覚ました、ということです。


もう、放送が終わってしまいましたが、

『舟を編む~私、辞書作ります』(主演:池田エライザさん)というドラマがありました。

その中で、経費削減のため、デジタル一本で辞書をつくれという社長に、

なんとか紙媒体のメリットを伝えるべく奮闘する姿が描かれます。


その時出てきたのが、「セレンビリティ効果」という言葉。

セレンビリティとは、思わぬものを偶然に発見する能力。引き寄せる力のこと。


同じことで悩む、ということは、似たような思考パターンだということです。

そして、誰かがそれを乗り越えた体験は、
ある意味、希望を見出せますが、

その体験そのものを、追体験することはできません。


私を救ってくれたのは、「同じようなことに悩む人」ではなく、ただの子猫でした。

つまり、モノの見方を180度変えようと思ったら、

全く違う考え方の人、#タグの外の世界にふれないといけない。

日頃、「思ってもみなかった」ことに出会うしかない。


思えば、私がもくせい工舎に出会ったのは、
フリーペーパーの広告を「偶然」見たからでした。

「セレンビリティ」そのものです。

木は好きでしたが、#自然素材とか、#漆喰の家なんて、考えてみたこともなかったのです。


SNSの時代にあって、#の外側、

こんな家があるとも知らない方に、どうやって伝えるのか。


とりあえず、関係あることないこと、色んな方面から記事にする。

それで、偶然見つけてくれたりしたら、本当に奇跡的。

私は、古臭い、時代遅れのアナログですが、
どこかの誰か、#の外の人に、届けばいいなぁ。

また、「家と、全然関係ないやん!」的な笑えるネタ、どうでもいい話なども折込つつ、

多角的な面から、家や暮らし、自然なこと、
そして家のことを考えてみたいなと思います。

20251115_思ってもみなかったことの向こう側

#の世界は「情報」まみれ。

それに疲れたら、やっぱり#とは正反対の、自然にふれなければいけない。

人と比べて落ち込むくらいだったら、スマホは置いて、散歩に行く方がずっと良いのです。

人を癒せるのは、自然だけ。

あの子猫も、まさに、自然そのものだったのです。

過食と拒食だった話

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


高校時代に、過食症から拒食症になったことがあります。

と言っても、(受診していないので)診断されたわけではありません。

今のように過食症、拒食症、摂食障害なんて言葉も知らなかったし、
当時あったのかどうかも分かりません。

なにせ、40年近く前のことです。


過食の時は、お腹が空いていないのに食べます。

家族に見つかると色々言われるので、隠れて食べるのです。

口に何か入れていないと、咀嚼していないと落ち着かない。
しかも、甘いものばかり食べたくなります。

当然、ブクブク太る。それなのに、しばらく気づかない。

母親に「あんた、食べ過ぎよ」とたしなめられるのですが、
口にしていないと落ち着かないのです。

そして、体重がマックスになったころ、ようやく現実に気づきます。

今度は、反動で一気に食べなくなりました。


不思議なことに、食べなくなっても、お腹が減らない。

過食の時は、「減らなくても」食べていたのに、
拒食の時は、食べなくても「減らない」のです。

何かを口にすること自体が、罪悪感でいっぱいになるので、
そのうち、とうとう味噌汁も飲めなくなりました。

もう、精神的に限界だったんだと思います。生理も止まっていました。

体が危険だと、信号を発していたのです。


今思えば、親の関心を引きたいがゆえに、
中学は猛勉強していました。丸暗記です。

でも、高校にあがれば、
同じように勉強してきた人や、元々から賢い人もたくさんいます。

足の速い人ばかりを選抜すれば、その足の速い人の中でも、順位ができ、最下位ができます。

足が速いはずだったのに、そう思っていたのに、上には上がいるのです。

それだけを自信に生きてきていると、いっぺんに奈落の底に落とされます。

少なくとも、本人はそう思ってしまう。

頑張ることで保たれていた、「自信」や「存在価値」がなくなってしまうからです。

両親は共働きで、いつもピリピリ忙しくしてましたから、それどころじゃない。
今思えば、よく生きていたなと思います。


そんなある日、友だちが自宅に誘ってくれました。

お昼を作ってくれるというのです。

私は、まだそんなに食べれず、ためらったのですが、
「飼ったばかりの子猫がいるよ。アメリカンショートヘアの。」という。

もう、食べたら吐くかもより、子猫見たさの方が勝ち。
二つ返事でついていったのでした。

彼女は、ご飯とお味噌汁、そして五目炒めを作ってくれました。
そして、おじいちゃんが買ってきたという、唐揚げを添えて。

そして、ありがたく唐揚げを頂こうとすると、その子猫が近づいてくる。

私の膝に乗って、前足を私の口元にのせて、口元の唐揚げにフンフンと鼻を近づけてきます。

「何食べてるの?それ美味しそう!ワタシも一緒に食べる~!」って。

その姿がかわいくてかわいくて、なんだか大笑いしてしまって、ふと気が付いた。

「いかん、私、このままやったら死ぬかもしれん。」

なぜか、食べ物めがけて、一心に近づいてくる子猫をきっかけに、目が覚めたのです。


あの時の自分も含め、子どもは、大人が思う以上に、言葉にならない思いを抱えているんじゃないか。

それが長ければ長いほど、深ければ深いほど、もう何から話していいかも分からない。

テレパシーで送れたらいいのに。思ってきた背景ごと。

それができないから、消化されないまま、心の傷と同じように、
自分の体を傷つけてしまうことがある。

いっぱいいっぱいになった時、生きている感覚を確かめるために。

そんな時、傍にいた人間に何ができるのか。

今なら分かるのに。
今なら、少しは分かるのに。

「言葉にできない」は、「考えていない」わけではない。

気持ちの整理がつかなくて、思考が追いついていかないだけで。

こうする「べき」が分かっていても、何かしっくりこなくて。もどかしくて。

上手く言葉にできない、腑に落ちない何かがあって、それでも、心配かけたくなくないから、

子どもは黙ってるんじゃないかと思うのです。

あの子猫みたいに、真っ直ぐ、ただ、生きていてもいいのに。
本当は、それだけでいいのに。

子猫に救われる