大工は大工の。言葉はつたわるか。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「大工と話すときは、大工の言葉を使え」
そう言ったのはソクラテス。

それを用いて

「コミュニケーションは受け手の言葉を使わなければ成立しない。
受け手の経験にもとづいた言葉を使わなければならない。」

そう言ったのは、ピーター・ドラッカーです。

言葉が通じても、心まで通じるわけではない。

そう思うことがあります。

反対に、言葉は通じなくても、心が通じるような時もある。

心が通じる!までは大げさでも
「あんたのことは、よ~分からんけども、OKだ」と
承認されたような心地になる。

そんなことはありませんか?


どんなに同じ言語で話しても、通じないこともあれば、

「言葉」の通じぬ赤ちゃんや、犬猫や、外国の人に
言葉以上のOKを貰える時、

言葉はあくまで「道具」や「ツール」の一つに過ぎず
絶対ではないのだなぁと実感します。


ウクライナ侵攻が始まったとき、ショックでした。

いきなり、なのだと。

いきなり、何もかも壊されるのだ。誰かの正義の名のもとに。

兄弟国とまで言われ、言葉も通じるのに。

「やめてくれ」といってるのに。


そんな中、ウクライナのゼレンスキー大統領の
戦禍の中からの言葉は、なんと伝わりやすかったか。

世界一貧しい大統領と言われたホセ・ムヒカ元大統領(ウルグアイ)もそうでしたが
言葉は違えど、伝わりやすい言葉を使う人がいる。

それは何故か。

それは、私たち民衆の側に立ち、私たち民衆の言葉で伝えようとしている。

大工は大工の、と言ったのは決して社会的立場だけの話ではないはずです。

「誠に遺憾です」「断固抗議します」
「おっしゃる通りです」

言葉は正しくても、全く温度を感じない時がある。

それは何故か。

育ちのせいかもしれませんが、
(少なくとも私は)頭の中で考える時、心で感じる時
遺憾とか使いません。

残念だという意味やニュアンスは分かるけれども、
どことなく違和感を覚えるのは、
使い慣れないからかもしれない。

もしくは、発する側の「温度」や「熱量」の影響かもしれない。




以前、PTAで県内の女性代表が集まる会議に出たことがあります。

そんな中、代表の方が仕事で出席できないからと
「事務局のものなんですが...(笑)」と代わりに出席された女性がいました。

会議で意見を交換する中で、その方が

「・・・えっと、ちょっと方言丸出しになるんですが、
いつも使っている言葉で言っていいですか?

なんか、きちんとした敬語で話そうと思うと
自分の心と違う感じになるんで」

と前置きして、いつもの、
友達に話すような言葉で話し始めました。

何故かそれがとても印象に残ってて、
みんな笑って、その場の雰囲気がすごく柔らかくなったのを覚えています。


発する側の温度が温かければ、言葉はいらないかもしれない。

逆に
発する側の温度が低ければ、言えば言うほど・・・ということも
あるかもしれない。


正しさより、まずは温度。・・・た、態度もかな(^_^;)

どういう思いで言っているか。

それが大切なんでしょうね(^_^;)

言葉って難しい、です。奥が深い。

信じるということは

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


信じるということは、
闇雲に、盲目的に、
誰かの
何かの
言いなりになることなんだろうか。

最近、ちょっと考えてしまいました。

「言いなり」という言葉はともかく、

おっしゃる通り
言われたとおり
それを疑いもしないで行うことが
「信じる」ということなのか。
私にはよく分からないのです。


「こうしないと、ひどいめに遭う。」と脅すことも

「こうしていれば、幸せになれる」と優し気に言うことも

どちらも「言うとおりにしていれば」が前提で
結果や成果が現れない限り
「おまえの努力が足りないからだ」と言われる。

ムチを恐れて、言いなりになることも
アメを欲して、言いなりになることも

それは、本当に「信じている」ということなんだろうか。

大人と子どもに例えれば分かりやすいのですが

罰を恐れて大人の言いなりになる子
愛情や関心、もの欲しさに大人の言いなりになる子

それは、大人を信じているんだろうか。

言うことをきかないと
ひどい目にあわす大人

言うことをきかないと
愛してさえくれない大人

そんな大人の顔色ばかり気にして
弱い立場の子どもは、
いつ、心から安心できるのだろうか。

仮に、状況によらず
【幸せな状態】というものが、
安心していられること、
心やすらかなことだとすれば、

子どもを安心させてやれることが
大人の、さらには何かの、役割なのかもしれない。

どんなにあなたのことを信じているか
どんなにあなたのことを愛しているか

それを饒舌に語れる人間が
それを語らない人間より
本当に「信じている」と言えるのか
私にはよく分からないのです。

以前、カメラ片手に
朝日が昇るころ、風景写真を撮りに行ったことがありました。

待ち構えていると、
東の空がだんだん明るくなってきて

目の前の田んぼや、山々を
お日様の光が、まんべんなく照らしていきます。


カメラを構える私にも
コスモスの花々にも
雑草にも
土にも

同じように陽が当たっていく。

「あぁ、分け隔てなくって言うのはこういうことなんだ。
いじけて陰に隠れてさえなければ
どんなものにも
こんな私にも
同じように光は当たるんだ。」

と、妙に納得した瞬間でした。

とはいえ、俗世にまみれて
日々不平不満ばかりの私ですので
すぐ忘れてしまうのですが

「信じる」ということの本当は
明日も日が昇ることを
疑いもしないことに似ているんじゃないか。

明日お金が無くなる心配はしても、
なぜか
明日空気が無くなる心配はしない。

それは、
明日も同じように空気があって
同じように生きていることを
疑っていないから。

信じているから。

少なくとも
ムチを恐れず
アメに振り回されず

自分の心を安心させる術を
私なりに
少しでも身に付けたいと思います。

偽物は脅す
偽物は焦らせる

心配に似た
親切に似た

「あなたのため」という名の
【支配】もあるかもしれない。

どんなことにも。
どんなものにも。
お互いに。

信じていれば簡単なんです。
なぜなら自分で考えずにすむから。

そう言ったのは誰だったっけ・・・。