「なんかいい」を生み出すもの

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


もくせい工舎では、無垢の木と漆喰で家を建てています。

漆喰壁や玄関の三和土風の土間を手がけるのは、日田の原田左研さん。

自然な素材にこだわり、
壁をつくるというより、
壁と壁の間の雰囲気をつくる。

そんな類まれなセンスの職人さん達です。

この漆喰・左官仕事に関しては、
機械化され続けてきた建築の世界で
今も残る、数少ない手仕事の部分といわれています。


だからでしょうか。

工場からパネルで運ばれて
あっという間に出来上がる
新建材のお家に比べ、

もくせい工舎のお家の出来方は
どこか手作りっぽいのです。

また、人の手仕事だからできることもあります。


こちらはもくせい工舎のカタログ等々でよく掲載されるお家なのですが、


もくせい工舎の自然素材の漆喰壁の家

・・・パッと見て何かお気づきになりますか?

そう、このお家、カドがないのです。

もくせい工舎の自然素材の漆喰壁の家。角がないので優しい雰囲気。

緑色のラインの中を拡大すると・・・↓

手仕事で丸くなった漆喰の壁

他にも、パッと見シンプルなお家ですが、

自然素材の漆喰の壁の家の外観

近くまで来ると、その仕事ぶりに驚きます。

漆喰壁の角が丸い仕上がり

カドが丸い・・・だけなのですが
これだけでフリーハンド感が出るというか

ジブリ作品の背景画のような
優しい雰囲気になるのは驚きです。

これは、人の手による仕事だからでもあります。


また、もくせい工舎の家でも
同じようでいて
よく見ると鏝の跡は、かなり違います。

漆喰の鏝跡の違い
同じ「凹凸をつけた塗り方」であっても、左のように滑らかなアイスクリームのように塗った鏝跡もあれば、
右のように「ほら穴っぽい」質感で仕上げた鏝跡もあります。



私たちも
毎回同じように書いている自分の名前だって
意識しないと微妙に違います。

筆跡は同じでも、紙の摩擦や腕の位置で
全く同じにはなりません。


下は、パソコンなどで使われるフォント(字体)です。

フォントと手書き
パソコンなどで使うフォント(字体)も、手書きっぽく見せていても赤い丸のように、同じ字は全く同じ。
手書きだと、(下手なせいもありますが)全く同じ形にはならない。



完全や、完璧ではなく、
ちょっと外す。
「遊び」がある。

「なんかいい」雰囲気は
人の手仕事の賜物といえます。

手仕事

スタイリッシュで都会的な住まいを好むか

手び練りの器のような家を好むかは

人それぞれですが

「なんかいい」雰囲気は
自然と心をほどいてくれる。

「なんかいい」人の手仕事は

物や空間に遊びやゆとりを与えてくれるのではないかと思います。

「意味」

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


先日、久しぶりに赤ちゃんにふれる機会がありました。

予定日よりずいぶん早めに生まれてきたらしく
実質的には8か月。

伝い歩きが楽しいようで
ニコニコしながら近づいてきます。

手を差し伸べて抱っこすると

・・・あ~、うん、なんかこんなだった。
こんな感触だったよ、赤ちゃんて。

つるつるして、ちょっとペタペタして
重いのに、軽い。

下の子で考えると
15年ぶりくらいの感触です。


「・・・孫っち、こんな感じなんでしょうね~」


子育ても終盤になってくると、
赤ちゃんは可愛いばっかり。


手のかかる時期を必死で過ごしている時期に比べたら
気楽なものです。


嫁や妻の役は、本当に向いていなかったと痛感していますが
母親になったのは、自分にとっては良い経験になったと思います。

少なくとも、低い鼻っ柱は折られました。

それまで、自分で努力さえすれば、
がんばりさえすれば
なんとかなってきたことが

自分がどうあがいても
どうしようもないこともある。

受け入れて、その上でどうしていくか。

それに目が行くようになったからです。

だから、うまくいかない人を一概に責められなくなりました。


利発で、快活で、性格も良く
誰にでも好かれ、
いかにも世の中の役に立っていけそうな子。

そういう子が、俗にいう「子育ての成功例」だとすれば
いかにそれを目指していくかが「親力」みたいなものかもしれません。

・・・でもな~。工場で饅頭つくるようなわけにはいかないんですよ。

これさえしとけば、というマニュアルどおりにはいかない。

だって人間だもの。

親である私が100点じゃないのに
子どもに100点であれ。

っていうのは、どうも合わなかったのです。

仕方がない。私が親だもの。

東大に兄弟を何人も送り込むほど敏腕ではありませんが
うちの子は、華やかな「良い子」ではなく
なんだかほのぼのした「いい奴」にはなってくれました。

女子にはモテないけど、猫にはモテています。


へなちょこな母親ですが
子どもを育てるのって、盲導犬のパピーウォーカー的なものかと思います。

子犬の時に、愛情をたくさんもらって
人間を好きになって、
そして「盲導犬として合格」すれば盲導犬になればいいし、
盲導犬にはなれなくても、また別の生き方がある。

産みはしたけれど、実は「預かり物」で、
ましてや所有物ではないのかもしれない。

「子どもが生まれれば、親にはなれる。
でも、親であることは難しい。」

大学の時に先生に言われた言葉です。
これだけは覚えています。授業の内容はほとんど忘れたのに。

子育てをしていると、
自分の子ども時代の古傷に向き合うことも多い。

私は褒められたこともないのに、
褒めろとな?とか。

でも、自分が子どもの頃
大人に言われてた嫌だったこと、されて嫌だったことは
「私はやらないぜ」って決めることはできるんですものね。

褒めることは苦手でも、
【ねぎらう】くらいはできそう。

ねぎらってもらったら
「なんだかんだいっても
ちゃんと見てるんだな」って実感しますしね。


前回のブログに、胎児性水俣病の娘をお風呂に入れる母親の写真のことを書きました。

あの時に思ったのは、同じ境遇だったとして

私の母は、同じようにしてくれただろうか。
私は、我が子に同じようにできただろうか。

それは、どこかハッキリ言えないのに

強烈にあったのは

「こういう風に、どんな私でも
好いてくれたらどんなに嬉しいだろうか」
という思いでした。

世の中の役に立つとか
必死で頑張っているとか

そういう目に見える
分かりやすい「意味や意義があるから」ではなく

無条件に好いてくれる、
お前は、生まれてきて、生きていてOKなんだと。
例え、他所の人がどう言おうとも、
私は、お前が大切なんだと。
そう断言してくれる。

その存在がどんなにありがたいか。


ユージン・スミスの「入浴する智子と母」の写真を見て、
状況は大変なのに、同情するとかのレベルじゃなく、

胸をよぎったのは
強烈な羨ましさだったのかもしれません。


子どもは、饅頭工場で合格品をつくるようなものじゃない。

親の成績表でもない。


生きている「意味が(今は)よくわからない」ことは
(イコール)生きている「意味がない」とは絶対に違う。

しかも、それをどうして誰かにジャッジされなければいけないのか。

自分が「意味が理解できない」だけで、
「意味がない」と決めつけて。

それじゃ、相模原障がい者殺傷事件の犯人と同じです。

私たちは何もかも理解できているわけではない。

それなのに
「意味」ばかり考えて、
ジャッジして。

目に見えることばかりが
人の「役に立つ」じゃない。

日の当たるところで頑張る人も、
人知れず、がんばる人もいる。

役に立って偉いとか、
頑張ってて偉いと、

他人をジャッジし、
自分すらジャッジし

存在理由や生存理由まで判定されるんでしょうか。

でも、それって
お互いがお互いを見張り合うような
ギスギスした世界になりかねない。

役に立ってないと、
いかにも頑張ってないと、
好いてくれない世界で
私たちは
いつ心から安心できるんだろう。

理屈抜きで、
損得なく好いてほしいのは

きっと、大人も子どもも同じ。

皆、冒頭の赤ちゃんみたいに
意味があろうがなかろうが

ニコニコ笑っていたはずなのに。

生まれつき
おとなしい赤ちゃんはいても、
根暗な赤ちゃんはいない。

皆、ニコニコ笑っていたはずなのに。