ウンは自称で。
不思議なもので、うまくいっている時に、うまくいっている【要因】のことを考える人はほとんどいない。
うまくいかなくなった時に、多くの人は【原因】を探す。
それは、健康な時には、さほど体のことは気にせず、
何か不調が生じた時に初めて、何が悪かったのかを探りたがるようなものかと思う。
私などは特に、健康で、調子が良い時は、
うまく回れていることに感謝の一つも感じることもなく、
それが自分の持って生まれた、当然のように思い過して、
いざどこか悪くなると、その「痛み」で頭がいっぱいになる。
そして、その痛みが引いてしまえば、
喉元を過ぎた熱さのように、痛みのない【通常】の有難さなんか忘れてしまう。
性懲りもないのです。
運ということに対しても、そうかもしれません。
順風満帆に行っている時より、
二進も三進もいかなくなった時の方が、自分の運というものに対して考えてしまいます。
なぜ、こうもうまく進まないのかと。
なぜ、こうも裏目裏目にでてしまうのかと。
そんな時、どうすれば現状打破できるのか、道が拓けるのか、
そればかりグルグル考えてしまう。
目に見えないドアを探し続けているような、
アップアップと溺れているような。
実は、ドアからじゃなくても出られたり、
半歩先は、浅瀬だったりするのかもしれないのに。
運と言うことに関しては、脳科学者の中野信子さんが対談しているショート動画で興味深いことをおっしゃっていました。
「自分は運が良い」と思っている人と、「自分は運が悪い」と思っている人のくじ運を実験してみたら、
どちらも何も変わらなかったとのこと。
ただ、同じ空の下にいても、その上の空の虹に気づく人と、気づかない人がいるのと、違いはそこではないかというような内容でした。
くじ運のそれと同じように、運はある意味平等にあるのに、
ツイてるな~、うれしいな~と感じる感度が違うということでしょうか。
裏目裏目にでるという時、どこか自分なりに「こう動けば、こうなるのではないか」という期待があるように思います。
それは、打算ともいえるでしょう。
特に、「こう動けば、こう思ってくれるんじゃないか」というような他人の気持ちに対しての打算は、
まぁ、見事にフラれることが多い。
つくづく、他人の気持ちなんて、期待通りにならないということです。
自分の気持ちさえコントロールが難しいのに、そりゃそうだよなって思います。
思い通りになんて行かない世の中で、
それでも、それを慰めるかのように、思いもよらぬことを与えられるというか、
見せられる(?)時がある。
たとえば、これです。
・・・ちょっと分かりにくいですかね。茎が細くて、背景に馴染みすぎちゃってます。
黄色の丸の中に、小さな花と、同じように小さな丸い玉が見えるでしょうか?
アングルを変えると分かりやすいのですが、
・・・こんな感じ!まるで線香花火のようです。
こんなに華奢でかわいらしい花なのに、漢字で書くと【爆蘭】。
ハゼランと読みます。
名前の由来は、種がはじけて飛ぶ様子から。別名【三時草】。
3時のヒロインならぬ【三時の貴公子】とも言われています。
三時と付く通り、実はこの花、夏から秋の3時くらいにしか咲かないのです。
図書館の駐車場が満車だったので、近くの神社に停めて歩いていると、
たまたま見つけたのでした。
しかも、道の駅で見かけて、気になっていた植物。
呼ばれるように気が付いたというか、
よくぞたまたま、咲いている時間帯に通りかかったもんだとビックリしました。
駐車場が空いていたら、見れなかったんだし。
もう、うれしくて、うれしくて。
ちょっと落ち込んでいたのですが、すっかり元気になりました。
雨が降らなきゃ、虹が見えないように
うまくいかない中で、何を見ようとしたかが大事なのかもしれない。
鬱々としてしまうときこそ、下を向かずに、自然なものに会いに行く。
寄せては返す、波の音や
木々をゆらす風の音や、鳥の声。
そういったものと自分も何も変わらないんだと実感を取り戻せば、
また少し元気になって、ままならない世を泳いでいけるのかな、と思います。
おとぎ話のような運の良し悪しはともかく、
そういったものに気づく、アンテナを張ってて損はない。
運が良いかなんて、自称で上等なんですよ、きっと。