目には目を 木には木を?

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


若いころは、眼鏡とは無縁の生活でしたが、子どもを産んでくらいから、どんどん目が悪くなりました。

特に乱視がひどくて、ものが二重に見える。

カラスが、平行して四羽、飛んでいるのかと思ったら、
よくよく見たら、二羽がダブって見えていた、なんてことも度々です。

ぼんやりとは見えていても、確信が持てない。

そのせいか、はっきり、くっきり見える【視認性】が高いものを好むようになりました。

服装にしてもそうで、はっきりくっきりがありがたい。

「色白は七難隠す」というけれど、あいにく、隠せる白さを持ち合わせていない私は、
年々、くすみもひどくなる。

そうなると、くすみカラーとか、グレイッシュなんてもってのほかで、
なじむというより、同化してしまって、
どこからどこまでが顔で、服なのか見分けがつかない。

くすんだ私に、くすみカラーなんて、【視認性】が低いにもほどがあるのです。

くすみカラーが似合うとは

明るい、気分が晴れるような色を選ばないと、
よけい気が滅入るので、自然と、そういった色を着る。

トシをとると派手になるのは、こういった理由か!と、
最近になって実感した次第です。


さて、今回は、そのはっきりくっきり見える【視認性】に関するお話。

先般、ずっと気に入って使っていた掛け時計が、天寿を全うしました。

木の壁に青い時計

20代のころ、1000円くらいで雑貨屋で買ったもの。

青で、真四角(意外に少ない。)なのが気に入っていて、結婚してからも
アパートの居間で、わが家の(割と、どうでもいい?)歴史を見守っていたのでした。

家を新築するにあたり、実は木のおしゃれな時計とバトンタッチを考えていました。

ところが、

木の壁に木の時計
(画面で見るより、実際はもっと同化)

・・・木に木が、馴染みすぎて、同化してしまう。

せっかくの、木の時計なのに、その良さが伝わらないのです。

漆喰の壁に木の時計

これが、漆喰壁が背景だと、くっきりする。

木に漆喰という、異質なものを背景にすると、
ぐっと、木の時計が引き立つ。
 
色味も似通っていないので、くっきりはっきり、視認性は高くなる。
目立つのです。

とはいえ、使いたいのは木の壁の場所。

結局、この木の時計は、別の部屋で使うことに。・・・もったいない。


木の色味の反対色は、青系なので、やっぱり青は、雰囲気が締まります。

できたら、5,000円いかないくらいでないかしら。振り子時計なら、なお良いんだけど。

しかし、良いものは、やっぱり高いのです。

これでも十分では?と買ったものが、こちら。

木の壁に青い時計

悪くない。悪くないんだけど・・・なんかフツーというか、おもしろくない。
味わい深くない。

結局、予算面で一度は断念したのですが、
本当に欲しい時計を掛けました。

キコリさんの青い鳥の振り子時計

キコリさんというメーカーの、青い鳥の振り子時計です。

青い鳥の部分が振り子になっていて、エサをついばむように動くのです。

キコリさんの青い鳥の振り子時計


キコリさんの青い鳥の振り子時計

青の丸い時計は、台所でテキパキ動いてくれています。

仕事しながら、ふと目線の先にあるのは、
のんきに、ゆっくり動く、振り子の時計です。

たったそれだけなのですが、本当に好きなものが横にあることが、
ありがたい。

ずっと、何十年も使うと思います。

木には木が似合います。

そして、どう生かしたいかで、何を選ぶかが違ってきます。

良いものを長く使うつもりなら、
トシをとった後、見えやすいか?も意外と大事ではないかと思います。

コスパ、コスパと気にしながら、
しっくりこないものを使うより、

実は、本当に気に入ったものを長く、大事に使うことも

費用対効果が高いのではないか、と
何度か失敗してみて、ようやく分かりました。(トホホ)

はっきりくっきり

のびしろ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


最近は、こんなところに?と思うような場所にも、
沢山カフェができています。

こんなところに?と思うような場所には、

そう思っても足を運びたくなるような、
プラスαの魅力や理由があります。

古民家を改装していたり、癒される自然があったり、
店主さんのこだわりがあったり。

cafe
(イメージであり、文章の内容とは関係ありません。↑こちらは、山奥の人気カフェ・豆岳珈琲さん。)

わざわざ行くだけの価値があるからこそ、何年も続いているのだと思います。

私は、お店を探すとき、必ず口コミの低い方も参考にします。

口コミの低い内容を見て、自分がさほど気にしないことなら、
良しとします。

反対に、全く悪い評価がない場合は、
その口コミの全体像をサラっと見て、

同じような文体だったり、実体験に基づくものでなかったり、
「友だちが良いって言ってました!」みたいな評価が多い時は、
かなり訝しんで検討します。

特にレビューの投稿者が、その店以外、どこにも評価してない場合は、
サクラの臭いがプンプンする。

細々と、広告や文章を生業にしていると、
なんか臭う?時があるからです。

そうやって、低いレビュー内容をみていると、時々、「愛想が悪い」が出てきます。

う~ん。これに関しては、高圧的でない限りはいいような・・・。

お金を払うだけの、【価値がある提供】をしてくれさえすれば、
過剰な愛想は期待しないからです。

ただ、そういった低いレビューに何と答えているかは、
・・・ちょっと恐々見てしまう。

返事の仕方で、なんとなくお店の姿勢が分かるからです。

売り言葉に買い言葉みたいに、喧嘩腰で返事をしている所は、
おっかないから、まず行きません。
(喧嘩腰じゃなくても、AIなの?ってくらい、機械的に返信してるのも怖い。)

もう、行く前から嫌だもん。

(クレーマー的なのはともかく)少しでもウチにケチつける奴は許せない!って。

どんなにこだわっていても、写真映えしても、
嫌だもん。ピリピリしてそう。

自信やプライドをもって、こだわることはいいけれど、
少しでも悪く言おうものなら、相手が悪い!ってスタンスは、
もう、なるべく近寄らない。
お金払って、緊張なんか買いたくない。

そして、【こんなに頑張っているのにケチをつける人間=敵】だと思い込む背景には、
どこか怯えも見える気がする。

本当に自信がある人というのは、どこか謙虚でもあるからです。


以前、体が動かなくなるまで、夢中でパンを焼いていた時期がありました。

OL時代、休みの度に、遠方(片道2時間)の山奥のパン屋さんまで手伝いがてら、見習いに行っていて、
そこの先生にも

「○○ちゃんは、アイデアはいいけど、手がね~」と言われるほど、
トロくて不器用。

練習しても、練習しても、なかなか上手くならない。

そんな時、大分市内のグロッケンというパン屋さんに行きました。
(現在、古国府から移転されて、錦町に。
ご実家の和菓子店【つるや】を継がれて、その一角に、【グロッケン】のパンコーナーがあります。
巨峰からとった天然酵母パンや、本格的なドイツパン、そして街のパン屋さんらしいパンまで、なんでもあります。
こちらのパン・オ・ノアや、パン・ド・フリュイは、もうたまらんです。)

なんとなく、パンの話になって、フランスパンもうまく作れたことがない旨を伝えました。

その時、そこの店主のおじさんが
「ぼくも、何十年も焼いてきて、これだ!って思えたのも、何回もないよ。
こうやって、商売してても、毎日、勉強!」
と言ってくれました。

中学生のころ、京都奈良に修学旅行に行く前に、美術の先生がしてくれた話を思い出します。

それは、「菩薩」さんの話でした。

菩薩さんも、いつか如来になりたいと勉強している。
自分も、勉強している身なんだけれど、
困っている人がいたら、手を差し伸べ、導いてくれる。

私にとって、そのおじさんの言葉は、菩薩さんの言葉だったのです。

もっと修業が足りない私を、見下すことなく、
自分も勉強中と笑ってくれたことは、どんなにありがたかったか。

いつか、目指すものにたどり着く自信がある人は、
今の力不足を笑わない。恥じない。

この世に、完璧なんてものがない以上、

今、足りないものは、

【見たくもない欠点】か、それとも【伸びしろ】か。


芸術家なら、自分のこだわりを【分かる人間】にだけ売ればいい。

でも、芸術とデザインは違う。

デザインに伴うのは、機能であり、
それの良し悪しは、

つくった本人ではなく、
使った人に委ねられる。

分かる人間にだけ、ではどこか独りよがりになる可能性もある。

芸術作品のように、自分の表現欲に重きを置くか、
あくまで使い手や客あってのものとして、精度をあげていくのか。

カフェにしろ、何の商売にしろ、
そこに使う人がいる以上、それは芸術ではなく、デザインであり、

そう言った意味でも、
こだわりをどう評価するかは、
残念ながら、他人に委ねられる。


芸術とデザインをくっきり分けることはできないけれど、

それでも、あのパン屋のおじさんのように、
みんなに喜んでもらえるよう、勉強して、さらに高みを目指していくのか、

周りは敵だらけと思い込むかは、人によるのかもしれない。

前者が見てるのは、お客であり、
後者が見てるのは、傷ついた自分のプライドとも言える。

見たくもない汚点を、見て受け止め、次につなげる勇気のある人。

その人は、きっと菩薩さん的であるのではと、

レビューを眺めながら、思うのでありました。
(そういう私は、とてもとても菩薩さん的ではないのだが。)

欠けた部分には、可能性

バナナはになるか

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


先日、『鉄腕ダッシュ』を観ていたら、衝撃が走りました。

・・・バナナって、木じゃなかったんですね。
草の仲間なんだそう。

ずっと、半世紀以上、木だとばかり思い込んでおりました。

調べると、バショウ科の常緑多年草で、木のように見えるのは、
偽茎(仮茎)と呼ばれる、葉が重なり合ったもの。

つまり、玉ねぎのように、外から剥いていくと、なくなってしまうみたいです。
(外から剝いでいくと・・・で、思い出すのがタケノコ。
実は、竹も、草でも木でもない有節植物。イネ科のタケ亜科とのこと。
・・・イネ科って。え~?そうなん??って感じです。)

一年草と違い、多年(宿根)草なので、

枯れたあとも、また時期が来れば新たな株が出てくるのですが、

・・・それにしても、草って。何メートルもあるのに?

すごいなぁ、南国!スケールがでっかい。

そう言えば、大学の頃、北海道から来た子に、
「九州、虫がでかい!」と言われたことがありました。

・・・南方にいくほど、そうなのか??


番組では、新宿でバナナを育てる企画を一年がかりでやっていて、
冬を迎え、いよいよ奇跡の完熟バナナが食べれるか否か?の、
集大成の回でした。

(詳しくは、【鉄腕ダッシュ バナナ】で検索して頂ければ、
公式サイトにてご覧いただけると思います。
以下、ざっくり私なりの概要です。)

常夏の国で育つバナナ。それをガッツリ冬が来る都心の新宿で。

地球温暖化の影響か、皮肉にも猛暑の助け?もあって、当初は順調にすくすく育ったよう。

蕾ができたのが、9月。完熟するには、それから約120日かかります。

つまり、1月の終わりには完熟、のはずなのに、
その一日前、119日目になっても、実は硬く、渋いまま。

気温が10度以下になると、生育困難になるらしく、
スタッフさん達が交代で、ハウス内を温めます。(裏方さんも大変だ!)

葉が黄色く枯れはじめ、苗を譲り受けたバナナ農園さんに相談。

「バナナが風邪をひく」という状態の、低温障害ではないかとの見立て。

マンゴーなどの南国の植物によくみられるようで、風邪をひいて寝込んでいるようなもので、
弱って、成長が滞っている原因にもなっているのでは?とのこと。

土にも、ただの冷たい水ではなく、一肌のぬるま湯をあげる等のアドバイスをもらっていました。
(マンゴーやバナナを一般に育てることは、稀ですが、身近なところだと、薩摩芋も、低温障害がでます。
秋に収穫したものを冬越しさせるには、低温に注意する必要があります。
我が家は、家の中で、何重にも毛布などで保温して越冬させます。
育てるのはラクですが、ヌクヌクと過保護に?保管せねばなりません。
本来、南国の食べ物なんだな~と実感します。)

その時、ふと太一君(国分太一さん。家族間で、太一君、太一君と言っているので、ここは失礼して、太一君とさせていただきます。)が、

「声をかけた方がいいとかありますか?」と電話越しに先方に声をかけます。
(この辺が、さすがの太一君!)

「あ~、それはね、ほんと、植物が愛情感じるというか、
五感六感あると言われているんで、寒さも感じてるんで、
愛情をこめて、毎日管理してあげてください。」

「いや、実は現場監督だった松田君が、一回も声をかけてないんですよ」

「え~?そうなんですか?ぜひ声をかけてやってください」


このやり取りを聞いていて、思い出したのが、映画『奇跡のリンゴ』。

不可能だといわれてきたリンゴの無農薬栽培を実現した、木村秋則さんをモデルにした作品です。

阿部サダヲさん主演で、農薬でつらい思いをする妻(菅野美穂さん)のために一念発起。

村八分にあったり、大量の虫を手作業で捕ったり、
10年経っても成果がなく、借金は膨れ上がるばかり。

家族にもこれ以上迷惑をかけられないと、自殺まで考えます。

色々な困難を経て、気づきを得て、ついに11年目には
無農薬での成功を手にするのですが、

一部、枯れたり、実がならない木あります。

それは、隣のリンゴ畑との境界にある木。

ずっと、リンゴに声をかけ、はげまし続けてきた木村さんでしたが、

隣人にどう思われるかを気にして、境界の木には声を掛けられなかったとのことでした。
(詳しくは、書籍または映画でご覧ください。
ずいぶん前に見たので、違っている箇所あればすみません。)

植物は、水不足や傷つけられたときに、人間に聞こえない周波数の「悲鳴」をあげるといいます。

聞こえないから、叫んで「ない」わけでも、
傷つけられて「平気」なわけでもないということは、
かなりショッキングです。
動物が傷つけられて、悲鳴を上げるように、
聞こえないけど、植物だって叫んでいる。

そして、反対に、言葉は通じなくても、
その口調や、気配で、
思いやってくれているのも、伝わるのだとしたら、
なんということかと思います。

声をかけるということは、
相手の存在を気にかけること。
気を配ること。

目に見えないから、ないわけではない。
聞こえないから、ないわけではない。

知らないだけだったり、
気にもしていなかったり。

あらためて考えさせられます。

何十年生きても、驚き、学ぶことが多い。

しかし、バナナが草だったのが、
今のところ、今年一番の驚きかもしれません。

バナナは木(き)にならずとも、気(き)にして育てよってことでしょうか。

植物ですらそうなんだから、
声かけ、気にかけ、が人間にとってもどんなに大事か。

とても勉強になりました。

20250325_バナナは草

マニアックと言えば、マニアックなのかも。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


残価設定型のクレジットで買った車を、いよいよ返却する時期が近づいてきて、
中古で他社の車を検討していた息子。
(考えてみたきっかけが、連日息子ですみません。)

彼が、某ディーラーの担当営業Aさんと話をしていた時のことです。

このAさん、昔から夫婦ともにお世話になっている人で、
お客さんに尽くしすぎる、どんな時も嫌な顔一つしないで応対してくれる、本当に頼りになる方なんです。

息子のことも小さい時から知っているので、新社会人になって初めて買った車も担当となり、
残価設定の下取りを前に、状態を見つつ、話題は中古車のことに。

「今、このル●ーとホ●ダの2つで迷ってて。」

「うわ~。俺、ル●ー買わせるぐらいなら、ウチの買わせるわ。」

ワハハハハハ!それ、販売店内で言っちゃダメなんでは?

「もう一つの方ね、これ欲しがる人は、いつでも欲しがるけん、
値段がちょっと・・・やけど、どっちかで言うなら、こっちがいいんやない?」

販売店内で、正直に?別メーカーの車を勧めるのも、
「あ~、○○君(息子の名)、もうこうやって、ここに来んのやね~」などど寂しがるのも、
この方の人柄。

本当に、車も好きで、人も好きな、【営業】のプロなんです。
(どんなに車のプロだと自負していても、人が心底好きでないと、こんな接客はできない。
特に、何かあった時、対応が全く違うと思います。

車専門のプロが、売る方、接客もプロかどうかは、別の話ってことですね。)

その時、こんなことを言っていたようです。

「いわゆる、一般の、ふつうの人があまり選ばんっていうか、
いわゆるマニアックな車、みたいなもんがあるんよ。

中古車屋さんは、万人受けする黒とか喜ぶんやけど。

それ見越して、黒選ぶっていうのも手なんやけど。

でも、こういったマニアックな車って、どんなに古くなっても欲しがる人もおるんよね~。」

息子が選んでいたのは、ツーシーターのスポーツタイプの軽自動車。
(ちなみに私が探し当てました~。私、なんか中古車探すのは、うまいみたい。
検索力!ってやつですよ。フッフッフッ・・・。)

「多分、見に行ったらね、いいとこしか目につかんよ?」と、笑いながら送り出してくれたそう。

この車、その後(「Aさんの言うとおり、いいとこしか目につかんかったわ!」らしく)買ったのですが、

そこの中古車屋さんも、「この手の車、仕入れて1週間くらいですぐ売れるんで」とのこと。

う~ん。マニアックな車、恐るべし。

ちなみに、前職の会社の後輩がMR2という車に乗っておりました。

彼女は、本当にその車を溺愛しているので、
中身を総入れ替えして、乗っております。

車本体は、30年いかないくらい経っているはず。

試しに中古車検索サイトで、MR2を入れてみたら、
走行距離や年式に拘わらず、そこそこのお値段で売られていて、

好きな人には、古くても何でも欲しい車なんだな~と実感した次第です。

さて、マニアックといえば、もくせい工舎の家も、
なかなかマニアックである。・・・と、言えないこともないのかなというお話です。

こだわりの豆腐、こだわりの蕎麦、なんていうといかにも美味しいのでは?と思います。

こだわりの・・・は、その枕詞でもあるのですが、
こだわっているから、美味しいと感じるかは個人の話。

でも、こだわっている本人を前に、「あんまり美味しくない」とは言いづらく、

こだわっている=ちょっとメンドクサイ感じも否めません。

こだわっているからにはの、プライドがある。
すると、前述のAさんのように、人好きでない限り、ムッとしてしまう。
接客のプロではないからです。

だから、こだわっているに付いてくる、なんとなくメンドクサイ感じは、
そんなことを思い起こさせるからではないでしょうか。

これは、いたしかたない。

こだわっていることは、いささかのメンドクサイ感じを内包している。

ただ、前述の車のように、ツボるひとがいる。

これでないと!と、思う人がいる。

木の家を嫌いな人がいるとは思えないけれど、
なんとなくメンドクサイ感じを受ける人は少なからずいる。

キズが付きやすいのでは?とか、お手入れが面倒なのでは?とか。

でも、同じ理由でメラミン食器ばかりでご飯食べても、味気ないのです。

やっぱり、土でできた器を手に取り、木のお箸を使い、
自然の力強さを感じるご飯を食べる。

メンドクサイ感じを内包しながら、これでないと!と思うものに囲まれて生きていく。

これをマニアックだと言えば、マニアックなのかもしれない。

言い換えれば、これでないと!と思って建てた家は、
これでないと!と思う人の心を動かす。

メンドクサイ感じを内包しながら、こだわった家は、
やっぱりどこか、メンドクサイ感じの誰かの心を掴むのかもしれない。

車なんて、動けばいい。
家なんて、寝に帰ればいい。

どうでもいい。

そんな「どうでもいい」で、満たされないでいたい。

例え、マニアックだの、メンドクサイだの、言われることになっても、
これでないと!と思えるものに、
私は出会っていきたい。

なぜなら、私だって、そこそこメンドクサイからです。

人間、というのは単体でなく、
人と人の間、関係性のことだったとは、誰の言葉だったか。

そこには、やっぱりどこかメンドクサイを内包しながら、
完全に排除するのも味気ない。
そういった、【間柄】のようなものが含まれている。

マニアックといわれようとも、もろもろのメンドクサイを抱えて、

この世界を、「どうでもいい」で満たすことなく、生きていきたいなと思います。

ツボる木の家

すぐ助けに来れないスーパーマンは・・・

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


長男が、仕事で腰を痛めました。

転職したばかりだったので、「イテテテ」と言いながら、それでも出勤していたのですが、
一向に良くならず。

それどころか、出勤しては、痛くて早退する。そういったことが増えてきました。

その度に、行きつけの整体院や鍼灸院に転がり込むも、一時的で完治せず。

骨自体に異常がないか、レントゲンを撮ってもらおうと、
近くの整形外科に行ってみたのでした。

「正常なら、背骨って、緩やかなSの字になっているはずなのに、
はてなマークみたいになってるね~。

これ、うちじゃどうもならんから、どっか整体院かなんかで治してもらって?」

と言われた模様。

いやいやいやいや。整体院でなかなか治らなかったんで、行ったのに?

仕方なく、「イテテテ」と言いながら、出勤し、
限界を迎えては、早退し、鍼灸に飛び込むことを繰り返していました。

とはいえ、早退ばかりしていられない。

らちが明かず、「MRIでも撮ってもらおうかな~」と別の病院に問い合わせるも、
「今日はちょっと・・・」と、タイミングが合わず断念。

仕方なく別の病院に問い合わせると、「MRIはないけど、診察して、紹介状は書けるよ?」とのこと。

行ってみたら、「軽いヘルニア」と診断されたようです。

今は、よほどじゃない限り、手術はしないんだそう。

そこでも、「どこかの整体院かなんかで」と言われたらしく、強めの痛み止めのクスリ(←カタカナ表記の方がぴったりくる系の)だけもらって帰ってきました。

???なんで?若いと、そこのリハビリ使えんの??
なんでそんなに、他所にふる??

とはいえ、仕事には行かねばならない。
行けば、重い荷物は持たねばならない。

若いから、整体に通えばそのうち治るだろうと言っても、
自然治癒を仕事は待ってくれません。

いよいよ困り果てて、レビュー☆4.5越えの遠方の整形外科に行ってみることに。
そこは、外来リハビリも熱心に行っているようでした。

せめて、同じ診断名でも、何かアクション取れないか。

強すぎるクスリでごまかして、「どこかの整体かなんかで」じゃなくて、
何かもう一歩突っ込んで、どうにかできないか、藁をもすがる思いだったのです。

ところが、人気の病院。

電話をするも、予約は2週間後。

それでも、とにかく予約をして、受診したのでした。
(当たり前ですが、その間だって「イテテテ」で、早退の繰り返し。
予約しただけじゃ治らないからです。)

診断は、「ヘルニア」。やっぱり手術はしないけれど、1週間の絶対安静。
治るまでに最低でも、1か月は無理をしないことと、
治療には3か月はかかるだろうという見立てでした。

でも、「どこかの整体院で」「いつか治るだろう」じゃなく、

具体的に【数字】で、お医者さんが言ってくれることがどんなにありがたいか!
さすが、☆4.5越え!遠方まで行った甲斐もあったのです。

末梢神経障害性疼痛の薬ももらえて、リハビリも「こちらでどうぞ」とのことだったので、
遠方でも通うことにしたのでした。

戻ってきた息子が、「なんかもう、患者さんが多すぎて、2月3月は新患とらんって言いよったよ。
早めに行って良かった~」と言っておりました。


その後、休職を申し入れると、「一応、念のため」という上司のすすめで、最初にMRIを撮れずにいた病院を再受診。

やっぱり「ヘルニア」。
そこでリハビリも受けれるようになったので、そちらに通っています。

病院、4か所目。もう、セカンドオピニオンどころじゃありません。
ヘルニア、確定です。

思えば、最初のはてなマーク診断から1~2か月。

その間、自然治癒する間もなく無理をしていたがために、
くだった「ヘルニア」診断だったのでは?と思います。

しかし、今回の整形外科にしても、歯医者にしても、何にしても、

腕がいいと評判の所は、直ぐには見てもらえないことも多い。
そこが難点でもあります。

緊急手術!ほどの切羽詰まったものでなくても、

あきらかに日常生活に支障をきたす痛みと、
会社に迷惑をかけることへのプレッシャーは、

じわじわ真綿で首を締められるよう。

そんなにのんびり、待っていられないのです。


かといって、空いている所だと、結局たらい回しになって、完治しない。


忙しすぎて、直ぐに助けてもらえないスーパーマンか。

あまり頼りにならないけど(?)、聞いてはもらえる人か。

いざという時、頼りになるのは
いったいどっちなんだろう・・・。

しかも、ずっと我慢してきて、
限界だと思って門をたたいた、

その【いざという時】が、まさに【今】なんだとしたら。


その道のプロでも、腕に自信があっても、
忙しいがすぎる人は、気軽に頼れない。当てにはできない。

こういうことを、ジレンマというのかもしれません。

しかし、具体的に数字で表せるって大事。

それは、具体的な、はっきりとした行動に結びつくから。

お客様の幸せのために。
国(県でも市でも)民の幸せのために。

うすぼんやり、聞こえばかりいいセリフは、
実際には何も具体的に考えていないからこそ

出てくるものなのかもしれません。

いつまでに、どうする。

はっきり言える行動を、起こせるか。

忙しすぎるスーパーマン(ここでは名医)の判断や行動をAIが学習して、チャットで診断。
その治療方針に従って、全国どこの病院でも処置。

どんな田舎に住んでいる、機械に疎い人たちでも、大丈夫。

困ったら、すぐに何とかしてもらえる、助けてもらえる世界に、いつかなるのかな~。
どうだろう?

期待したいところです。

腰は要
以前撮影で近くに伺ってから、私の癒しの場になっている豊前の嘯吹神社
その境内には要石なるものがあります。なんでもさすると腰に良いという。
その後、神主さんとお話しする機会があり、聞くと要石をさすった手で、患部を触るとのこと。・・・石だけしか触ってなかったよ。今まで。
帰りに、膝やら腰やら頭やら・・・。そこそこの年になると、もう全身触らないかんです。
神主さんが気さくな方なのを良いことに、由縁を伺うと、隣の力石を持ち上げて、腰を痛めた人が、要石を触ったら腰痛が治ったから!だそう。
ヘルニアも治るといいなぁ。


後に、理学療法士でもある行きつけの整体院の先生に訊くと、骨自体が損傷しているわけでないなら、やっぱり支える筋肉の問題なので、
そう言われたのでは?とのこと。
「とはいえ、そこのリハビリに通えれば良かったのにね~。なんで他所?」
それは、こっちが聞きたいところ。

ちなみに、どこに行くか迷って、接骨院と整骨院と、整体院の違いが気になり、AIのCopilotに訊いてみました。
以下のように答えてくれました。


もちろん、簡単に説明しますね。

- **接骨院(せっこついん)**: これは「骨接ぎ」とも呼ばれ、主に骨折、脱臼、捻挫などの骨や関節に関する怪我を治療します。柔道整復師という国家資格を持った専門家が治療を行います。

- **整骨院(せいこついん)**: 実は接骨院と同じ意味で使われることが多いです。ですから、整骨院も柔道整復師が骨折、脱臼、捻挫などを治療する場所です。

- **整体院(せいたいいん)**: 整体師が筋肉や骨格のバランスを整える施術を行う場所です。特に国家資格は不要ですが、整体師は訓練を受けて体のバランスを改善する施術を行います。肩こりや腰痛などの慢性的な症状に対応することが多いです。

わかりやすかったでしょうか?何か他に知りたいことがあれば教えてくださいね。

(行きつけの整体院は、運動指導もしているので、そちらでもお世話になることにしました。
とはいえ、そんなに簡単に治ったり、筋肉もすぐ付いたりしないので。

治りかけている所を、かさぶたをはがすような無理は禁物ということでしょうか。

皆さまも、くれぐれもご無理のないように。健康第一!)

お風呂の栓は、しましたか?

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


先日、ネットである記事を読んで驚愕しました。

それは、お風呂の自動お湯はりに関するもの。

お湯はりの自動のボタンを押して、「最初に少し水が出た後、一時停止するのは故障か?」との問い合わせに、
メーカーが答えた内容が元でした。

(わが家のお風呂は、10年以上使っているものなので、最新型はどうか分かりませんが)
確かに、早い段階で、一回止まる。

お風呂の栓をして、【ふろ自動】のボタンを押すと、

「お湯はりをします。お風呂の栓は、しましたか?」と音声が流れ、

ごぼごぼごぼごぼ...っとお湯が出だす。

数秒すると、一度止まるのですが、また続けてお湯が出だして、

指定位置までくると

「お風呂が沸きました」と知らせてくれるタイプです。

その記事は、わが家とは別メーカーのもの。

(メーカーによるのかも?ですが)
その最初にでるお湯は、配管に残っていた水なので、そのまま溜めない方がよいというものでした。


・・・・え~⁉・・・溜めてたよ?そのまま。
10何年も!

だって、最初に言うんだもの。

「お風呂の栓は、しましたか?」って。

「まずは、最初の水は流してください。それから、栓をしましょう」なんて言わないよ??

上記の記事の該当メーカーの説明書には、よく見ると書いてあるそうなのですが、
わが家の給湯はダイキン製。

・・・う~ん。そんなこと書いてないみたいなんだけど。

ネットでダイキンのQ&Aを見ても、「お湯はりが途中で止まった」の問いに、
「お湯はり完了までに、お湯はりと停止を繰り返す」との答えで、

最初の水は捨てるべし!とは出てこない。

ダイキンのAIチャットで質問してみるも、日常のお手入れとしての配管洗浄のページは出てきても、
やっぱり、最初の水は捨てよ!とは出てこない・・・。

う~ん。
メーカーによるのかもしれないが、
あまり気持ちの良い話ではないような。

だから、わが家では、

「お湯はりをします。お風呂の栓はしましたか?」と聞かれるのを、

あえて無視して、数秒栓を抜いたままにし、

水が一時止まったところで、シャワーで洗い流す。

その後、栓をして、給湯。

・・・としています。


最初に一時止まって見えるのは、お湯がないから「故障かな?」と気づきやすいだけで、

きっとお湯が溜まるまでは、

お湯の中で、出たり止まったり繰り返しているものなんだろうなと思います。
分かりにくいから、気づかないだけで。


とはいえ、私と猫以外、男ばかりのわが家。辞めた【便利機能】は他にもあります。

既に張ってあるお湯を循環させて温めなおすという【追い炊き機能】。
これもなんだか、あんまり清潔じゃない感じがして、使わないことにしました。

・・・すると、パイプユ●ッシュしても、変なビロビロが出てこなくなった。
(・・・いったい、毎日何に浸かってるんだか分かりゃしない。)

それで考えると、お湯と水を混ぜるタイプだった以前のお風呂は、
便利が過ぎない分、良い点もあったのかもしれません。

熱すぎたり、冷たすぎたり、入れすぎたりはあっても、

パイプの中まで気にしなくて良かったので。


台所の換気扇も、単純な作りの方が掃除がしやすかったりして、
便利が故の構造の難しさに泣くときがある。

システムキッチンのレンジフィルター奥の、
絶対手が届かない配管ダクトの中身を想像すると、

きっと汚れてるんだろうけど、どうしようもない。

掃除のしようもなくて、途方に暮れるのです。


う~ん。便利になるほど、構造や仕組みは、複雑になる。

複雑になるほど、素人じゃ、手におえない部分がでてくる。

ちょっとしたジレンマかもしれません。
(洗濯槽のカビの心配か、いっそ、たらいで洗濯か、みたいに。
洗濯だけに、難しい選択です。)



「お湯はりをします。お風呂の栓はしましたか?」

そう、声掛けしてもらう過剰な親切を他所に、

今日も又、完全無視の自己流で風呂を入れる日々なのでありました。


何でも自動化すると、退化しちゃうような気もしたり。しなかったり。

自然素材の家のもくせい工舎・お風呂
(※わが家のお風呂ではなく、同年代くらいのものを参考に載せています。)

おやくにたつ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「大人になったら、人の役に立つ仕事がしたい」

そう聞くたびに、ひねくれものの私は考えてしまう。

では、逆の「人の役に立たない仕事」ってなんなのか、と。


PTAの出事で、あるお母さんが仕事で来れないと聞いて、

「あのひと、そんなたいした仕事しよるわけや、ないんやろ?」
そう発したひとがいました。

彼女は、当時小学校の主幹教諭で、【良い先生】で有名な人でした。
バリバリに活躍されて、今は立派な校長先生になっておられます。

忙しい最中、自分だってこうして来ているのに!そう腹が立ったのかもしれません。
PTAの出事なんてめんどくさいですから、逃げてずるい!そう言いたかったのかもしれません。

・・・しかし、なんだろうな、このやるせない感じ。モヤモヤくる感じ。

自分の仕事に誇りを持つことと、貴賤をつけることは違う。

誰かが自負する【たいした仕事】【立派な仕事】を支えるために、
誰かが言うところの、【たいしたことない仕事】をしている人がたくさんいる。

取りざたされることもない、スポットライトも当たらない場所で、
縁の下で支える、目立たない仕事をする人がいる。

言い方をかえれば、

あなたが【たいしたことない】という、雑用をせずにすんでいるのは、
そういう仕事をしてくれる他者がいるからだ。

それを後々、何度も思い返しては、
あぁそうか、自分はそれでモヤっときたのかと反芻して、飲み込むことがあります。

パッと、言い返すタイミングも、勇気もなかったんだから、自分だって同じ穴のムジナなんです。


【人生の目標】に向かって、日々努力して、誰もが認める【たいした仕事】に就く。社会で活躍する。

そういったものを理想として押し付けられて、息ができなくなる子が多いような気がします。

それは、子ども達だけでなく、言ってる側の大人をも、じわじわ蝕んでいく。

誰かの役に立たないと、生きている意味がない。

誰かに迷惑をかけるなら、生きている価値がない。

それは、自分に掛ける、子ども達に掛ける、呪いのようなもの。

どんなに【立派】な仕事で【活躍】していても、誰しも老いは避けられない。

耳は遠くなり、足腰は弱り、日常に支障をきたせば、
誰しも加齢とともに、障がいを持つ。

誰かに頼らざるを得なくなった時、言うのだろうか?自分に。

存在や生きていることに対して、「たいして役に立たんのに、居る意味、ある?」と。

分かりやすく【役に立つこと】でしか、自分の存在価値を見出せないと、
いつか自分の存在価値を疑うようになる。

生きている【意味】を、【価値】を、疑うようになる。

冗談じゃない!

そんな分かりやすい【意味】ばかりであってたまるか!

ましてや、他人に、他人様の目に、なぜ決められなければいけないのか。

その際たるものが、相模原市のやまゆり園で起きた事件だったと思うのです。


解剖学者の養老孟子先生が、著書やYouTubeなどで興味深いことを仰っています。

それは、子どもや、社会的弱者に関することでした。
詳しくは、
『猫も老人も、役立たずでけっこう』著:養老孟子 P.106~
YouTube
『【養老孟子】あなたたちが生まれてきた意味は●●しかないですよ。子どもが生まれるときのことを考えてみてください』などをご覧ください。


以下、ざっくり、私の理解の範囲です。

子どもというものは、【自然】そのもの。

山の木や、草と同じように、

人間が、考えて、作って、置いたものではない【自然】そのものなんだと。
私は子どもを産みましたが、例えこの先彼らが禿げても、髪の毛一本用意できない。
つまり、わが子であっても、私には【自然】そのものは作れないのです。

ところが、戦後、どんどんどんどん、都市化が進むにつれ、【人工】のものが増えていく。

【自然】と対極にある、意味で満たされた【人工】のものに囲まれていると、
本来【自然】な存在である人間に対しても、意味が必要になってくる。

例えば、川に、大きな石がある。

そのことに、何の意味もいらないのに、

職場のデスクに置いた途端、置く【意味】を必要とする。

そしてそういった、ああすればこうなるといった、【人間の意識】にまみれた世界は、

よく分からないもの、不確定なものを嫌い、避けようとする。

育てたところで、どうなるかわからない【自然】な存在、子ども。

それをリスクとしてしかとらえられないのは、【人工】の【意識】で考えているから。


自分の存在価値に自信を失って、生きていることを辞めるのは人間だけ。

それは、人間には知恵があるから?

そうなんでしょうか?

養老先生の話を聞くと、そもそも、人間だって元々【自然】そのもので、
不確定で、分からないこともあるのを、忘れているだけなのかもしれない。


ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる。

それがうまくいくうちは、良いんだろう。

でも、生きていれば、こんなはずじゃなかったと思うことも多々ある。

それは、まさしく、人間が、子どもも大人も含め、本来【自然なもの】ということではないでしょうか。


自分の人生ですら、上手くコントロールも取れず、
自分の人生ですら、【正解】が分からないのに、

誰かの人生を、ああすればこうなるなんて言えない。


自然を見ていると、分かりやすく【役に立つ】ばかりが、全てでないことがよく分かる。

一見、意味の分かりにくいことも、何かの大きなつながりの中で、
影響し合って、何らかの流れになる時がある。

人知れず【役に立つ】意味が、可能性が、内包されているのに、

勝手に貶めるのは、傲慢なのかもしれない。


だから、子ども達よ。怖がらないでほしい。

世の中には、【人の役に立つ】分かりやすい仕事と、そうでない仕事があるだけで、

それが影響し合って、支え合って、網目のように世の中を支えていることを知ってほしい。

中学で、職業一覧で表示される仕事なんか、ありとあらゆる仕事のうちの一部に過ぎない。

だから、その中から、さぁ選べと言われて、ピンと来なくても当たり前なんだということに。

例え、会社員になったとしても、世の中にはこんな仕事もあるのかというくらい、多岐にわたる。

どんな仕事についても、犯罪に加わらない限り、そこに何の貴賤も、差もないし、

まして、役に立つかどうかが、あなたの存在価値にはならないことを、

見極めて欲しいし、知っていてほしいと、思うのです。

人間を機械の部品に例える人もいるけれど、

うまくいえないけれど、目の役目の人、脳の役目の人、手の役目の人、足の役目の人がいるんだと思う。

脳だけでは何もできないように、
手だけでは何もできないように、

そして、そういった目に見えやすい働きだけでなく、

消化酵素や、神経伝達物質のように、
見えにくいけど、無いと困るもののように、

そういった、目立たない仕事をする人がいるんだと、

今は思っています。

だから、役に立つかどうかを含め、【分からない】ことを不安に思いすぎることは
辞めていいんだと思うし、そう信じています。

目立たなくても、大切なのです。

目立たなくても、大切

炎のある暮らし

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


・・・すごい雪でしたね。

雪景色1

昨日から、じゃんじゃん、じゃんじゃん降り積もり、
このブログを書いている間も、まだ降りやまぬ様子。
(まだまだ、明日、明後日くらいまで降るようですので、どうぞお気をつけてお過ごしください。)

これだけ降っているのに、律儀に遅れることなく投函されていた新聞に頭が下がる。

いったい、何時に届けてくれたんだろうかと思います。

燃えるごみをまとめて、踏み出した銀世界はキラキラ眩しくて、神々しい。

雪が止んだ朝の晴れ間に、東からお日様が昇ってくる様子は、

雪景色と日の出

なんだかとても、静かで、荘厳な、美しい景色でした。
(本人は感動しきりでしたが、真っ白な雪の、荘厳な光の道を、オバちゃんが、おっちらおっちら、生ごみを捨てに行く、の図。
・・・はたから見たら、あまり絵にならんかもです。)

雪景色2
枝に細かく雪がついて、キラキラして。まるでクリスマスツリーのようです。

雪景色3
絶妙なバランスで積もった、物干しの雪

雪景色4
こんな細い枝の、こんな小さな分かれ目にも、雪がちんまり積もっています。

雪景色6
残っていたマユミの赤い実が、雪に映えます。

雪景色7
庭に勝手に生えてきたニラの花のようなもの。ほったらかしにしていた花柄に、雪が積もっていました。

雪は大変だけど、こういった、たまにしか見れないキレイな風景は、
汚れちまった悲しみ(中原中也的な?)を、少しは整えてくれそうです。


雪国に比べ、平地で積もることは多くなくても、やっぱり冬はキンキンと寒い。

そして、今頃のような寒い時期に、神社などに行くと、境内に焚火があって、温まることができます。

神社の焚火

手をかざして温まってみると、その独特な温かさに驚きます。

日頃、火にあたる機会がなく、当たったとしても電気ストーブ。

じりじり、皮膚の表面だけ熱くなるようなそれと違って、

炎の温かさというものは、体の芯からヌクヌクとしてくるような不思議な温まり方。

そして、揺らぎ立つ、踊るような炎の動きを、
手をかざしながら見つめていると、何とも言えず落ち着く。

波の音や、木の木目。一定なようで、少しずつ違うものに人は癒されると言いますが、
炎の動きも然り。

同じようでいて、少し違う。

暖炉を模した電気ストーブなども売られていますが、
表面だけ、炎の動きを映していても、

やっぱりパターンがあるし、第一、温もり方が全く違う。

炎って、自然な癒しでもあるんだなぁと実感した次第です。


築ウン十年、山の中のもくせい工舎・永家邸には、薪ストーブがあります。

「見せて~」といえば、見せてもらえると思います。

あたりまえのように、炎が身近にある暮らしをしています。

OB様の中にも、薪ストーブを設置されている方が数軒いらっしゃいます。

もくせい工舎の家は、断熱性能がかなり高いので、逆に温まり過ぎないかと思ってしまいましたが

自然素材の家と薪ストーブ

暖房器具としての役目だけでなく、あの独特の体の芯から温まる感じや、

炎の揺らぐ、光の優しさ、多幸感みたいなものは、何とも言えない。

そしてまた、薪ストーブには、自然素材の家がよく似合う。


代表が、大工さんの手を借りずに、ほぼ一人で建てた土壁の家。

土壁の家

ここの2階にも、薪ストーブがあります。

土壁の家の薪ストーブ

つけていれば、下の階まで温かい。

土壁の家の断熱材は、もくせい工舎のお家と変わりませんから、
どんなものか一度見てみるのもありかもしれません。

体の芯から温かくて、シアワセな風景ですよ~。

自然素材の家で炎のある暮らし

出されれば出される

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


家を建てて、ほどなくして、

「家を建てる時、両家の親同士で揉めんかった?」と知人に訊かれ、

「・・・いや、どちらからも一文もだしてもらってないけ、揉めようがない。」と答えました。

そう、出してもらえば、出されることになるもの。

今回はちょっと渋いお話です。


家は高額なので、土地なり、何なりを援助してもらうことは少なくないでしょう。

特に親御さんが、団塊の世代以降の場合、その子どもは、兄弟も少ない場合が多い。

7人も8人も兄弟がいれば、とてもじゃないけれど、
1人2人なら・・・と「協力する」ことはありうることです。

しかも、高度経済成長の波に乗り、給料も右肩上がりだった団塊の世代。

かたや、そのジュニアは、
ともすれば就職氷河期真っただ中、思い通りの職にすらつけなかった人も多くない。

だからこそ、親心で「少しでも援助を」と思う親御さんも少なくないと思います。


お金だけ出して、口は一切出さない。

そんな理想的な親御さんがどれくらいいるかは分かりませんが、

おおむね、お金を出されれば、口も出されるもの。

出された方も、自分の財布からのお金でない以上、強く言えないことだってあると思います。


ましてや、考え方や趣味嗜好が似通っていれば、問題も少ないのですが、

親御さんと価値観が違う場合、強く言えない立場だと困ってしまう。

専門的知識があれば、異を唱えることはできても、

「こうなんやけ、こうしなさい」と言われて、モヤモヤ思っても、反論のしようがない。

これは、親対子だけでなく、プロ対お客でも言えることですが、

経験と知識が少なめで、言い返すだけの言葉を持っていないと、
モヤモヤを飲み込むことになる。

この飲み込んだモヤモヤは、何かあった時に、その後くすぶる火種となりかねない。

例え良かれと思っても、反論なき「説得」は、押さえつけただけ。

考えを聞き、気持ちを汲み取り、代替案を一緒に考えていくことが大事です。

そうしないと、表面上は「納得」しているように見えても、
心の底から腑に落ちたわけではない場合、怖いのです。


私は、団塊世代の親を持ち、就職氷河期の最初の世代です。

母は、仕事も家事もテキパキ。何でも卒なくこなします。

効率的で、無駄がない。

実家は、建売の一軒家ですが、ローンも完済しているので、
売り払ってマンション住まいも、悪くないよう。

「寝に帰るだけだった」家に、特段の愛着がないのです。

仕事に家事に育児にと、多忙を極めた母に感謝はしつつも、

考え方というか、【大事にしている核】が親子で違うのは仕方がない。

だから、家を建てるとなった時に、
どうしても、その【大事にしている核】を譲りたくなくて、

一切、結果的に「援助」も、「助言」も受けませんでした。

甘えつつ、筋を通せるほど器用じゃないからです。

器用でない人間が、【自由】を得ようとすれば、
それに伴うのは【責任】。

選んだからには、の【責任】です。

なんとかしていくしかありません。


で、「口は出されず」思い通りの家が建ったか?

残念ながら、思い通りにはなりませんでした。
思いに、理想に、見合うだけのものを手に入れる力、お金が、私にないからです。

自由設計とは、あくまで予算内での自由であって、

持ち合わせがなければ、選べる範囲も決まっていることを、
分かっていなかったと思います。
(同じ食べ放題でも、例えば、松竹梅の各コースで選べるものが違うような感じです。)


「あんな風な感じにしたい」「こんな風にできたら」
憧れはありましたが、
(現実は「そりゃ、出せるならしてやるよ?」なので。)

あとは、創意工夫で、近づけるしかありません。

ブロック塀に練り西洋モルタルを塗る
ブロック塀に、ネットで仕入れた練り西洋モルタルを塗る

ただ、削ぎ落して削ぎ落して、
最低限【譲れなかったもの】で、家を建てました。


「こんな塗装もしてないような木で建てたら、キズが入るのに!」と、
案の定、母には言われましたが、自力で建てたので、出される口も少なめ。

【援助】を受けて、【助言】ばかり聞いて、いったい誰の家なのか分からない家を建てなくて良かった。


誰かの価値観と違っても、自分が大事だと思うことを大切に、家を建てたかったのです。

例え、キズが入っても、木の心地よさが。

例え、有名メーカーでなくても、自然な素材の素朴な優しさが。

例え、誰に何と言われても
本物の木や、土の存在を感じて、暮らすことが、大事でした。

効率や、無駄がないこと。それは、とても大事だと思います。

でも、そればかりが大切なわけではない。

効率ばかりを追い求めては分からない、
人間の、アタマの計算だけでは分からない、

自然を含めた、この世界の成り立ちとか、つながりとか、

時間の熟成させるものとか、色々。

自然にはたくさん、不思議な叡智がちりばめられていて、

自然なものとかけ離れるほど、

その有難さを忘れてしまうような気がするからです。


援助を受けるか否かも、親子関係も、人それぞれではありますが、

どうか【大事にしている核心】だけは、明け渡さず、
家づくりを楽しんでもらいたいのです。

そして、最初から、【完璧、理想通り、パーフェクト!】でなくても、

ぼちぼち、今の時点で、できることから手を加えて、
家を育てていくというか、

熟成させていく【暮らし】を楽しむ。

それはそれで、なかなか良いのではないでしょうか。


OB様たちの庭が、それぞれの色に染まるように、

それぞれの創意工夫のDIYが、味わいになるように。


それはきっと、家への愛着になり、

【かけがえのなさ】になるんだと思います。

家は庭は、表現欲かも
完璧な理想通りの人間がいないように、縁を大事に、創意工夫して、近づけていく。
家なんてなんでもいいと思えない人というのは、自分の心地よい空間や、世界観を「自分なりにつくりたい」表現欲のようなものがあるんじゃないかと思います。

ウンは自称で。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


不思議なもので、うまくいっている時に、うまくいっている【要因】のことを考える人はほとんどいない。

うまくいかなくなった時に、多くの人は【原因】を探す。

それは、健康な時には、さほど体のことは気にせず、

何か不調が生じた時に初めて、何が悪かったのかを探りたがるようなものかと思う。

私などは特に、健康で、調子が良い時は、
うまく回れていることに感謝の一つも感じることもなく、

それが自分の持って生まれた、当然のように思い過して、

いざどこか悪くなると、その「痛み」で頭がいっぱいになる。

そして、その痛みが引いてしまえば、

喉元を過ぎた熱さのように、痛みのない【通常】の有難さなんか忘れてしまう。

性懲りもないのです。


運ということに対しても、そうかもしれません。

順風満帆に行っている時より、
二進も三進もいかなくなった時の方が、自分の運というものに対して考えてしまいます。

なぜ、こうもうまく進まないのかと。

なぜ、こうも裏目裏目にでてしまうのかと。

そんな時、どうすれば現状打破できるのか、道が拓けるのか、
そればかりグルグル考えてしまう。

目に見えないドアを探し続けているような、
アップアップと溺れているような。

実は、ドアからじゃなくても出られたり、
半歩先は、浅瀬だったりするのかもしれないのに。


運と言うことに関しては、脳科学者の中野信子さんが対談しているショート動画で興味深いことをおっしゃっていました。

「自分は運が良い」と思っている人と、「自分は運が悪い」と思っている人のくじ運を実験してみたら、
どちらも何も変わらなかったとのこと。

ただ、同じ空の下にいても、その上の空の虹に気づく人と、気づかない人がいるのと、違いはそこではないかというような内容でした。

くじ運のそれと同じように、運はある意味平等にあるのに、
ツイてるな~、うれしいな~と感じる感度が違うということでしょうか。


裏目裏目にでるという時、どこか自分なりに「こう動けば、こうなるのではないか」という期待があるように思います。

それは、打算ともいえるでしょう。

特に、「こう動けば、こう思ってくれるんじゃないか」というような他人の気持ちに対しての打算は、
まぁ、見事にフラれることが多い。

つくづく、他人の気持ちなんて、期待通りにならないということです。

自分の気持ちさえコントロールが難しいのに、そりゃそうだよなって思います。


思い通りになんて行かない世の中で、

それでも、それを慰めるかのように、思いもよらぬことを与えられるというか、
見せられる(?)時がある。

たとえば、これです。

ハゼラン

・・・ちょっと分かりにくいですかね。茎が細くて、背景に馴染みすぎちゃってます。

ハゼラン

黄色の丸の中に、小さな花と、同じように小さな丸い玉が見えるでしょうか?

アングルを変えると分かりやすいのですが、

ハゼラン

・・・こんな感じ!まるで線香花火のようです。

こんなに華奢でかわいらしい花なのに、漢字で書くと【爆蘭】。
ハゼランと読みます。

名前の由来は、種がはじけて飛ぶ様子から。別名【三時草】。
3時のヒロインならぬ【三時の貴公子】とも言われています。

三時と付く通り、実はこの花、夏から秋の3時くらいにしか咲かないのです。

図書館の駐車場が満車だったので、近くの神社に停めて歩いていると、
たまたま見つけたのでした。

しかも、道の駅で見かけて、気になっていた植物。

呼ばれるように気が付いたというか、
よくぞたまたま、咲いている時間帯に通りかかったもんだとビックリしました。

駐車場が空いていたら、見れなかったんだし。

もう、うれしくて、うれしくて。

ちょっと落ち込んでいたのですが、すっかり元気になりました。

虹

雨が降らなきゃ、虹が見えないように

うまくいかない中で、何を見ようとしたかが大事なのかもしれない。

鬱々としてしまうときこそ、下を向かずに、自然なものに会いに行く。

寄せては返す、波の音や

木々をゆらす風の音や、鳥の声。

そういったものと自分も何も変わらないんだと実感を取り戻せば、

また少し元気になって、ままならない世を泳いでいけるのかな、と思います。

おとぎ話のような運の良し悪しはともかく、

そういったものに気づく、アンテナを張ってて損はない。

運が良いかなんて、自称で上等なんですよ、きっと。

自称ラッキーで