つちかべ~

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


13日の金曜日、午前中に電話が鳴りまして。

電話のヌシは、永家Tさん。

「実は、土壁の家が完成しまして・・・」

「それは、それは、おめでとうございます。」

「お披露目会を今月末、開催することになったので、写真をお願いできないかと。
インスタとサイト告知になるので、その準備もあるかと思いますので。」


行く行く!行きます!午後イチ行きます!

そう二つ返事して、午後からもくせい工舎に伺いました。

土壁の家は、もくせい工舎の敷地内。

元は、バスケットゴールの置かれていた、広々とした芝生があった場所です。

そこに、代表が大工さんを頼らず、ほぼ一人で、コツコツ作り進めてきたのでした。

土壁の家

いきなり山の中に、こんなのが現れるんだから、びっくりです。

土壁の色味や、質感、角の丸み、【Culu】の文字がかわいい、まるでジ●リのような外観。

で、正面がこう!

土壁の家

全部お見せするわけにはいかないので、雰囲気だけでも。

土壁の家
窓枠とお揃いの細長い、四角のかわいいニッチ。さてこれは、どこにあるでしょう。

土壁の家
古い木造校舎の図書館みたいな窓辺。本を読みながら、おいしいコーヒーでも飲みたいところです。

土壁の家
壁の色味が、深くて、花を置いただけでも絵になります。

土壁の家
はっきり見せたい反面、現地でビックリしてほしくて。イメージだけ、こんな感じ‼

この土壁のお家が見たい方、ご予約はこちら!

RESERVA予約システムから予約する
※外部サイトにつながります。

・・・と、言いたいところなのですが、
今、永家Tさんにチェックをお願いしてるので、もう少しお待ちください。

公開後は、上記から予約ページをご覧いただけると思います。

さて、ハガキでのDMをやめて、今はLINEなどでお知らせを送っております。

今回作成したのが、こちらです。

土壁の家お披露目会

「まるで予定なんかないけど、いつか家を持てたらいいなぁ。」

「今はまだ、とても無理だけど、いつかお店でも開けたらなぁ。」

そんな風に思ったこと、ありませんか?

今はまだ、漠然としていても、一般の建売とは違う、ちょっと変わった建て方の家を見てみませんか?

今はまだ、夢の夢と思っていても、「こんな風な建物で!」という出会いになれば、
それは、小さな一歩になるのではないでしょうか。

今はまだ、具体的な予定なんかなくても、

自然な素材で建てた家の心地よさを、ひとりでも多くの人に知ってもらって、

こんな建て方をする工務店が、宇佐にもあるんだよって誰かに教えてもらえたら、

それは、TVCM以上の価値になるんです。

いいなぁ~と思って、誰かにお勧めしてもらえるなんて、
CMでマツケンサンバを躍ってもらう以上の効果とも言えます。

だから、「建物が好きなので、ぜひ見てみたい!」も大歓迎!
(今回はお施主様から、お借りしてるわけでもないので。)

木の家や、土壁の好きな方、自然な雰囲気の好きな方は、
ぜひ、ご予約下さい。

公開したら、イベントトップや、お知らせ一覧でお知らせします。

お楽しみに!

つちかべ~

意識は変わる

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


いったいどこに行きたいのか、さっぱり分からない台風10号が通り過ぎていきました。

ほとんど雨の降らなかった8月の降水量を、たった数日で取り戻すような大雨で、
本当に怖い思いをされた方もいらっしゃるかもしれません。

心よりお見舞い申し上げます。


今回の台風は、風も心配されていたので
先に赤くなっているミニトマトだけでも、畑から採ってきました。

ミニトマト
本当に、日照りのように、ずっと雨が降らなくて。畑をして10年。初めて、苗でもないミニトマトとサツマイモに水を撒きました。

さいわい、自宅周辺は思ったほどの被害もなく、様子を見に行った畑にも、
それほどの被害はありませんでした。

・・・あ~。でも、何本かミニトマトの茎が折れている・・・。

もったいない~。・・・ので、

ミニトマトを活ける

活けてみました。

うん。意外や意外、なかなか絵になるぞ。(と、しておこう。)


こういった、なんとなく、しっくりと絵になるのは、自然素材の良いところかもしれません。

例え、それが落ちていたミニトマトの茎でも。・・・なんとかなる。


自然素材の家を建てて、十数年。変わったことは色々あります。

まずは、土に触れるようになりました。

そして、生ごみを落ち葉で肥料にすることを覚えました。

米のとぎ汁の栄養がもったいなくて、土に還すことも続けています。

捨てればゴミですが、活かせば、栄養になるのは、
土が身近にある暮らしになったからです。

(落ち葉の消臭分解力はすさまじく、通りすがりの猫さんのUにかけておくと、臭いがしません。
カラッカラに乾燥した後、コンポストに入れています。
野良さんズは、下痢気味の時もあるので、いくら猫好きでも、さすがにちょっと・・・、なので。)

身体的には、年齢があがったからなのかは分かりませんが、

引っ越してから、

長男(引っ越し当時、小学校高学年)のゼロゼロ喘息っぽくなるのと、
次男(引っ越し当時、小学校低学年)の青っ洟がなくなりました。


そして、一番変わったのは、家に対する意識だと思います。

自然素材の家さえ建てさえすれば、ハッピーライフ!なんて断言しませんが、

もう一度建てる機会があるならば、

やっぱり同じように、自然な材料で家を建てるだろうと思います。

お金があっても(なくても。)、新建材では建てない。


化学物質過敏症や、アトピーと言った健康問題がなくて、

新建材に住んだところで、これといったトラブルはないかと思うのですが、

木や土の質感が、やっぱり好きで、

そういった家に住みなれてしまうと、落ち着かない。

せっかく大金を払うなら、やっぱり、しっくり来て、心と体がうれしい家を建てると思います。

木にふれていたいのです。

無垢の木の天井
見上げれば、こんな天井。同じようでいて、一枚一枚、どこか違っている、本物の木。
違っていることが、あたりまえで、自然なことなんだと気づかせてくれます。



その辺は、やっぱり、ここまでガッツリめの《木の家》に出会って変化したところです。


賃貸によくある感じの家なら、賃貸でも良いかもしれない。

賃貸に、こんな家がなかなかないから、建てる意味がある。

そしてそれは、私が畑を始めたように、

コンポストのために落ち葉を集め始めたように、

きっと誰かの、なんらかの《きっかけ》となる【家との出会い】になるのかもしれない。


今回の台風で、残念ながら山香町で開催予定だった構造見学会が中止されました。

また数か月後、今度は完成した姿でお披露目できるのではないかと思います。
(これまでも、お施主様方のご協力あってこそ、なのです。いつもありがとうございます。)


ヒトやモノとの出会いは、変化を生みます。

色々不安なこともあるかもしれませんが、今ある悩みは、誰かの知恵で解決できるかもしれません。

動けば、変わる。

少なくとも、意識は変わると思います。

本当に良いものを、無理せず手に入れようと思ったら、自分の眼力を上げるしかなさそうです。

たくさん見て、たくさん家の《感じ》を味わいましょう。

ぴったり、しっくりくる家に会えますように!

捨てたものじゃない

包み隠さず

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


自然素材のもくせい工舎の木の家・8/31・9/1の構造見学会

来週末、山香町で構造見学会が開催されます。


構造見学会は、完成したら見えなくなる部分を、今のうちに確認できるチャンスです。

お化粧前のすっぴんを見るような、いわば【ありのまま】見学会。

包み隠さずどころか、じっくり見て欲しい見学会です。


無農薬野菜を選ぶように、生きていく場所として
ぜひ家のことも考えてみるきっかけとなれば、うれしいです。

食べ物だけでなく、衣食住どれをとっても、

どんな素材で、
どんなことに気を配って、
どう過ごしてほしいか。

作り手の意図は、飾り立てられたら見えないところにあります。


ずっと暮らす家。

それは、伴侶を選ぶように、

見た目や、条件だけではなく、
【しっくりくる】相性のようなものもあるはずです。

しっくり来なければ、腑に落ちないのは当たり前。

だからこそ、リモートやバーチャルではなく、

実際に会って、話して、どう思うか。

その自分の感覚が大事になってくると思います。


参考までに、こんな雰囲気の家の、

自然素材のもくせい工舎・木の家室内雰囲気
自然素材のもくせい工舎・漆喰のニッチ

その中身を見る

自然素材のもくせい工舎・構造見学会

こんな見学会です。

構造を見てみて、「思ってもみなかったけど、なるほどな~」

そんなきっかけになれば幸いです。

お気兼ねなく見ていただけるよう、予約制となっております。

しつこく営業もいたしませんので、お気軽に♪

自然素材のもくせい工舎・構造見学会

名もなき、支えるものがあってこそ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん



本当は、時期的に月末の構造見学会のお知らせを書くのがベストで、

本当は、SEO対策優先で、家関係のことを書いた方が良くて、

本当は、明るいことを書いた方が良いのを分かってて、

・・・うまく筆が進まず・・・。

5のつく日にブログを書くようにしたため、8/15がその日になりました。

うまく他のことが書けそうにないので、それこそ、ひとりごとのように書きます。

もしよければ、以下お付き合いください。


「日本のためとは 誰のためか」

今手元に、『戦争中の暮しの記録』という、百科事典ほどの厚さの古い本があります。

雑誌『暮しの手帖』の初代(カリスマ!)編集長、花森安治さんを中心に、当時の庶民の様子がまとめられた本で、

先の言葉は、その中にある、姫路市の男性の手記の、見出しでした。


そこで思い出したのが、『チッソは私であった 水俣病の思想(著:緒方正人)という本です。

水俣病の認定申請の最前線で戦ってきたのに、著者の緒方さんは、ある思いに駆られ、認定申請を取り下げました。

その理由を《私の中の加害者》という節で、語っています。
(ざっくりですみません。)

確かに水俣病事件の中では、加害企業はチッソであり、

国や県が産業優先の政策を進めるために、それを擁護してきたのも事実で、

三者とも加害者であることは構造的な事実なんだけれども、

その一方で、チッソや、県や、国にあると思ってきた責任が、
本質的なものなのかという疑問が、ずっとあったのだそうです。

そういった構造的な責任の奥の、人間の責任。

そして、その人間としての責任を、緒方さんは自らにも問うことになります。

「お前はどうなんだ?」と。


チッソと闘い、県と闘い、国と闘ってきた、緒方さん。

そのつもりだったのに、【代表】や【担当者】が変われば、人が変わり、顔が変わる。

つらい思いを分かってほしいのに、受け止める相手はコロコロ変わる。

受け取ってもらえなかった思いは、人間としての責任の問いとして、自らに跳ね返ってくる。


つらいめに遭った人が、責任感がゆえに、その問いに苦しむ。

かたや、のらりくらりと、我関せずと逃げる人間は、気にも留めない。


この理不尽は、なんなんだろう。


国に責任を取らせる、ということは支払われるのは、血税であって、

問題を放置したまま知らん顔を通していた人間は、たいして痛い思いをしない。

しかも税金は、被害者側も払っているのだから、ややこしい。

責任を取ってほしいと思いながら、会社や、県、国という組織にあっては、

一体誰を相手に戦っているのか分からなくなったというようなことだったと思います。
(ざっくりですみません。)


「日本のためとは 誰のためか」

国のためといいながら、その国民が泣いている。

もっと分かりやすい単位で言えば、

「家族のため」といいながら、家族が泣いているのは本質的にどうなのか。

それに似ているように思います。


「人」の「為」と書いて、「偽」になる。

誰かのため、何かのため、ためためためため、偽偽偽偽。

声高に、さも尤もそうに、言わねばならない時、

その足元で、誰かが泣いていないか。

笑えない人間が多数を占めていないか。

トップに立っていると思い込んでいる人間ほど、本当は気を付けなければいけない。

そんなことを気に留め、考えるトップなら、そんな被害は出なかったのかもしれない。

返す返すも、腹が立つのは、緒方さんのように、「自ら省みる」のが善良な人間ばかりで、

何とも思わない、気にしない人間ほど、きれいごとを言いつつ、
逃げ足ばかりが早いのは、なんなんだろう。


『この世界の片隅に』のコミックで、玉音放送を聞いたすずさんが、

「最後のひとりまで闘うんじゃなかったんかね?」と憤るシーンがあります。

それでいえば、「最後のひとり」までいなくなれば、国はなくなる。

その国の「ひと」がいなければ、「国」は成り立たない。

その「ひと」を、駒のようにしか考えないから

何度も間違いを起こす。

気にしてないから。

いざとなれば、のらりくらりと、逃げればいいから。


何かの組織というかたまりは、

一見、個々たる「ひと」の寄せ集めに過ぎない。、

一方で、「ひと」あってこその組織であり、「くに」だとも言える。

つまりは、「日本のためとは 誰のためか」の問いは、
そこに住む「ひと」のためとなる。

そうしたら、大事な人を失って、誰かの大事なものを奪い、壊して、
誰も喜べないことは、

全く「ひと」のためになっていない。

平穏に続く、なにげない日常こそが「ひと」の喜びであるからです。


大きなことは分かりにくいけれど、

何かのためと言いながら、それを構成する「ひと」が弱っていれば、

「くに」なり、組織なり、家庭なりの単位においても、
弱り、衰退する一方でしょう。

不安が大きすぎれば、母乳が止まるように、

いのちの、つながりの、機能が狂う。

「次」を担う、子どもが、いのちが、少なくなる。


それは、木の根の先の、無数の菌類のように、

パッと見には分からない、つながり。


目には見えない、名もなき、無数の支えがなければ、この世は成り立たない。


根っこを、茎を、花を支えているのは、無数の見えないもの。

支えているのは、無数の見えないもの


土が弱れば、根も、茎も、花も弱るのは、組織も同じ。

それは、家庭や、企業、国だって、同じなんだと思います。

のらりくらりと逃げたって、見えないものを軽んじれば、その足元はズブズブだ。

・・・と、名もなきオバちゃんは思うんです。

もう二度と嫌だ!と誓った、終戦の日に。

数字じゃないこと

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


子どもが小さいころ、保育園に送り届けるために、車を走らせていた時、

ふいにサイレンが鳴り始めました。

ウ~ウ~ウ~、ウ~ウ~ウ~

8月6日、朝8時15分でした。

「・・・そうか、広島!」

その瞬間、こうやって【あの時】も、【日常】がバッサリ切り落とされたんだと。
いきなり、それはさく裂したんだと、そう実感したのでした。

この瞬間、もし今、ここに落ちていたとしたら、

私は、車中の次男坊と、

長男は学校、

夫は勤務先で、

それぞれどうなっていたのか、分からない。

こうやって、【あの時】も、いつもの【日常】を送っている途中で、

それが起こったんだと、感覚的に分かって、ゾッとしたことを覚えています。


多くの小中学校で、夏休み中の8/6には、平和授業が行われると思います。

北九州の小倉では、平和授業は8/9でした。

本来なら、広島の次に、小倉に落とされるはずだった原爆が、
前日の八幡大空襲の影響で、見通しが悪く、

次の長崎へと、目標を変更されたことが理由です。

小倉の代わりに、長崎が犠牲になった。

私はその小倉で育ったので、そのことはかなりのショックで、
大人になった今でも、なんとも言えない気持ちになります。

ザワザワ、もやもやするのです。


平和授業を受けて、「こんな悲惨な戦争を二度と繰り返さないように・・・」と
セリフのように言うことはいくらでもできるけれど、

子ども達はもちろん、先生たちだって、実体験がない。

実体験がないことを、この身に置き換えて考えてみることは、容易ではない。

誰が悪いわけでもなく、あまりにもひどいことほど、簡単に想像できない。

だから、かなりの努力を要するのです。

爆心地から何キロメートル以内の死者が何人とか、
熱線の温度がいくらとか、

それはデータだけの話で、

そんな「情報」や「数字」から、心から、腹から、何を思うことができるんだろう。


小学校の修学旅行で、原爆資料館に行き、【ファットマン】の模型の前で、
平和記念像の前で、

笑顔でピースサインする写真を見て、なんとなく愕然としてしまう。

情報や知識として知っていても、【腹】で実感することがなければ、
そうなってしまうのかもしれない。

知識として知ることと、実感することは、また別の話なんだと思います。


そんな感覚があったので、ずいぶん前に、一度長崎の原爆資料館を訪ねたことがあります。

リニューアル後だったので、建物は近代的で美しく、展示も工夫がたくさんされていました。


11:02で止まった時計、その場にいるような投下後のジオラマ、
その足元のモニターの画像・・・。

でも、なぜか、心がそこまで動かない。

映画のセットのようで、実感がないのです。


それが、あるものを目にした途端、もうダメでした。

学徒動員でかりだされていた中学生の女の子の、弁当箱。

ご飯が、真っ黒の炭になっていたのです。


弁当箱で、炭になるのだから、女の子がどうなったかは想像できます。

そして、この弁当箱に朝、ご飯をつめた母親がいて、

まさか、朝送り出したことが最期だなんて、思いもしなかったでしょう。

それが、感覚的に伝わってきて、

苦しくて、悲しくて、どうしようもなくなったのです。


同じものを、もっと若い時に見てもピンとこなかったかもしれない。

子どもがいる、母親である、同じような境遇であることで、
ようやく、ピンと来たのかもしれません。


今、手元に『図録 原爆の絵 ヒロシマを伝える』という本があります。

被爆者自らが、絵筆をとって、あの日、あの後を描いた絵が、言葉とともに収められています。

素朴な絵です。

ぽつりぽつりと、語るような言葉です。

それでも、どうしようもなく、感情を揺さぶられる力がある。


本当に嫌だったこと、思い出したくもないことなんて、口にしたくない。

それを、内臓をとりだすように表に現すことは、
どんなにつらい作業だったかと思います。

でも、そうして【腹】から取り出されたそれらは、
こんなにも、見る者の【腹】に【腑】に落ちてくる。

データじゃないのです。
数字じゃないのです。

そして、仮に、心揺さぶられ、腑に落ちたにしても、
それは、想像の域を超えない。

だから、努めて、心揺さぶられた何かは、忘れないようにしないといけない。


権力好きな誰かの、自己実現の下で、

ふつうの、当たり前の、【日常】が奪われることに、
強烈な違和感を、忘れないようにしないといけない。

大義名分ばかり、きれいごとばかり言う人間が、
かすり傷すらつけずに、

その下で、その陰で、

もう誰も、わが子を、大事な人を、失ってほしくない。

そう思います。

数字じゃないこと

おりこうさん

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


子ども達が社会人となって、子育ても終わりと言えば、終わりになりました。

今思えば、親になってみて、あらためて気づいたり、考えさせられることが多く。

そういった意味でも、親になったことは、私にとっての大きな学びになったと言えます。


子ども達が小学生のころ、夏休みに実家に帰っていた時のことでした。

わが子は、おだやかな性格だからか、あまりにも図星で遠慮したのか、
さいわい?「ク●ババア!」といわれることもなく育っていました。

かといって、言うことを、ハイハイと聞くわけでもなかったのです。

私自身も、なんとなく「○○しなさ~い‼」とヒステリックに言うのが嫌で、
「○○するってのは、どう?」みたいな感じで言ってきたのですが、

「う~ん!」と言いつつ、・・・しない。

帰省中に、その様子を見た、実家の母から

「子どもにナメられてから!」と言われたことがありました。

・・・そうか、私は、ナメられないよう育てられたのか。

そうすると、色々なことが、点と線でつながっていきました。


子どもは親を敬い、従うこと。


聞こえはいいけれど、なんだ?このモヤっとする感じ。


それは、親が一方的に、植え付けるものなんだろうか。


親に限らず、社会的な上下関係は、かならずある。

親と子。上司と部下。教師と生徒。プロとアマでもそうかもしれない。

先輩なんだから、
経験も知識も豊富なんだから、

敬えよ。従えよ、と。

言うことをきかないと、後でどうなっても知らないよ、と。


う~ん。

【敬い】はともかく、【従う】にモヤっとくる。

隠れた、【従うべき】にモヤモヤする。


今、朝ドラ『虎に翼』であらためて、数十年前に学校で習ったはずの、
日本国憲法にふれることが多くて、考えさせられます。

【従う】ことが、強制ではなく、子ども側からの能動的なものだったら問題ないのです。

常日頃から、その大人の言動を見ていて、

「この人がこう言うんだから、そこには何か大きな理由があるんだろう。」

そう自然に思えて、そうしておこうと言うのなら、問題ない。
でも、【従わない】と、どうなるか分からないから、そうするのは
怯えからであって、

そうせざるを得ない状況に、大人がしてしまっている。

そこに見えない【強制】がある以上、子どもは個人として尊重されていないわけで、

多分、そこにモヤっとくるんだと思うのです。


半世紀以上生きて、ク●ばばあ感も板についてきた私ですが、

モヤっと来る中に、思いがけず、自分の子ども時代のかさぶたを見る。


人生の先輩であろうが、後輩であろうが、

お互いに、一個人として尊重される風通しの良さがあればいいのになと思います。

子どもは未熟に見えるかもしれないけれど、

先輩風を吹かせた大人がいつも正しいとは限らない。

「○○しなさい!」

「なんで?どうして?」

「どうしてもよ‼‼‼‼」

押さえつけ、しまい込んだ言葉が、子どもにモヤモヤとなって残る。


生まれつき、親を嫌う子どもはいない。

少なくとも、物心つくまでは、

どんな未熟な親でも、欠点の多い親でも、

子どもは、全身全霊の愛情で親を慕ってくれる。必要としてくれる。

それが、物心ついてから、

埋めようもない溝に気づいても、遅い。

それは、物心がついた、子どもの心に、
大人が、何かをしでかしたことになる。


「じわじわできた傷は、じわじわ治すしかない」


わが家へやって来た時、猫のハチさんを病院に連れて行った際、
年配の獣医さんから言われた言葉を思い出します。

首から左脇にかけて、輪ゴムが食い込んで抉れ、大きなキズができており、

その手術が難しいとして、言われた言葉でした。


じわじわできた心の傷も、きっとじわじわ時間をかけて直していくしかない。

そして、そのかさぶたを気にして、自分ではがすようなことをしていたら、

いつまでたっても治らないのも同じなのかと思います。


(こころ)に諸(もろもろ)の不浄を思ひて 心に諸(もろもろ)の不浄を想わず

これは、以前書いた嘯吹神社でいただいた社報にあった、
六根清浄の大祓(おおはらい)の一節。

意識に様々なけがれた事を思っても、その事を魂に刻まないように

という注釈がありました。

【けがれ=気が枯れる】なんだとすれば、

元気がない時、疲れている時、余裕がない時ほど、
気を付けないといけないのかなと思います。

それを考えれば、「ナメられないよう」育てねばならないほど、
若かりし頃の母だって、いっぱいいっぱいだったのでしょう。


私は、神経質と言うか、気にしぃな方なので、

そんなこと思うアンタが悪い!と、何度怒られたか分かりません。

でも、ほぼ瞬間的に、思っちゃってるんだから、どうしようもない。

何も思わなかったことにして、何度、自分の感情に蓋をしてきたか。

臭いものには蓋、です。

でも、その何かはブスブスと心で悪臭を放ちかねない。

だから、

そう思っちゃったにしても、魂に刻み込むほど、執着するな。
思ってしまっても、手放して、楽になりなさい。

清々しくありなさい。

・・・と、いうことなのかな。


せめて、自分にできることは、

大人や、上の立場の人に言われて嫌だったこと、
されて嫌だったことは、

子ども達にしないこと。

それくらいしか、ありません。


「なんでお前は、そうなん?」

子どもを失敗作のように思うなら、

それは、親としての私だって、たかが知れている。

子どもは親の成績表じゃない。


あくまで、ヒト対ヒトで、

人間は、自然の一部でもあるんだから、

思いのまま行くことばかりではない。


明るく快活で、勉強も、運動もできて、友だちも多くて・・・。

本当に、手のかからない、お利口さん。

利口とは、賢いや聞き分けが良いのほかに、抜け目がない、狡いの意味もある。

大人の顔色をうかがわせて、お利口さんの良い子が

大人にとっての【都合】の良い子にならないように。

こどもだって
こどもだって
こどもだって
(こどもだって、色々大変なのだ。)

スクスク、イキイキ、

どの子も育っていけますように。

そう願います。

20240725_おりこうさん

暮らしと音風、笑う

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


以前、版画家の武田由平(よしへい)さんの作品を、中津市内5か所で展示公開する催しに出かけたことがあります。

武田由平さんは、飛騨の生まれ。

昭和4年、遠く離れた中津南高校に美術の教師として赴任しました。

右手で文字を書きながら、左手で絵を描いて、生徒たちをびっくりさせ、
「ガニ先生」と呼ばれて、とても慕われていたそうです。

生徒にも地元にも愛され、その作品が市内各所にあったことで、
官民タッグを組んでの【アートで中津をつなぐ合同展】として、開催されました。

その会場の一つとなったのが、登録文化財にもなっている久恒家住宅。

実は、ずっと前から、立派な門扉と大きな木に囲まれた、そのお屋敷が気になって仕方なかったのです。

どんな建物なのか、ぜひ見てみた~い!

しかし、おいそれとは入れない。

敷居が、文字通り高いのです。

美術展の会場にもなっているこの機会に、ぜひ見てみたい!と、鼻息も荒く出かけたのでした。

(武田由平さんの作品は、とても温かみがあり、色彩も、構図の取り方も、
本当に私好みであったのですが、今回は記事としては割愛させていただきます。

久恒家住宅も、武家屋敷+洋館みたいな風情あるつくり。入り口に銅鑼があって、びっくりしました。
バィイ~~ィン‼「たのも~!」って呼ぶんかな?どだろ?)



なかなか一般住宅では見ない感じの敷地の門をくぐると、入り口付近にすぐ、【六月八日】という、すてきな雑貨店があります。
(もう、ロゴがカッコいい。)

山林業を営んでおられる関係で、森から採れたエッセンシャルオイルや関連の雑貨などを取り扱っていました。

その店先に、「りーーーーーーーん!」となんとも澄んだ音がする。

それはスタイリッシュな鋳物の風鈴。

・・・こ、これは、なんていい音なんだろう!
(思えば、この時、私の風鈴スイッチがONになる。)



どこのか聞いたのですが、・・・覚えきれず。

後日ネットで探して、【能作】という鋳物メーカーの、スリムという風鈴では?と思っています。
(興味のある方は、公式サイトにて視聴もできますので、ぜひ。)

とはいえ、考えてしまった。

あの音は、あの久恒家住宅、あの六月八日のような雰囲気にあってこそ、
似合う音なんじゃないか。

知らないだけで、きっと他にも色々自分にピッタリのものがあるかもしれない。
(お値段も、思った以上、そこそこしましたので・・・。)

そこで、【風鈴 音色】で調べてみることにしました。

今は、YouTubeなどで検索すれば、風鈴の聴き比べが簡単にできるのがありがたい。

南部鉄器、小田原風鈴、茨城のサヌカイト石、明珍火箸、鎌倉メノウ風鈴・・・etc.

どれも涼し気な、日本の夏にぴったりの良い音です。

サヌカイト石や、メノウなどの鉱石は、澄んだ音色の中にもどこか素朴な感じもします。

色々見ていると、コシチャイム(ヒーリング風鈴)なるものも出てきました。

ヒーリングかぁ~。

せっかくなら、聞いていて癒されるような音色がいいかなぁ。

そこでヒットしたのが、これ!

20240715_バンブーチャイム.png

バンブーチャイム!

風が吹くと、コロン、ポコン♪ポコン、コロン♪と音がする。

他の風鈴の、一瞬で空気を凛とさせる音色も素敵だったのですが、

竹と竹がぶつかり合う、この自然で素朴な、かわいい音色に参ってしまった。


どんなに風が強くなろうとも、コロン、ポコンと、なんだかのほほ~んとしている。

そして、その素朴すぎる自然な素材の音色は、

風が吹くたび、風が笑っているようで、聴いていて楽しくなる。

これは、かわいいわ。

しかも、Amaz●nで、1,500円前後で買える。

なんを言えば、吹きさらしの風の通り道にぶら下げていると、ちょっと黒ずんでくるのが玉にキズでしょうか。

それでも、風が吹くたび、うれしくなる音色なのでした。

これなら、住宅街でも嫌がられにくい音色なんじゃないかなぁ~。

もし興味がある方は、ぜひ聞き比べてみてください。

とても楽しいです。


そういえば、ヤシの実割った時、どこかで見たことがあると思ったら・・・。

ヤシの実の殻

ヤシの実殻

バンブーチャイムの上部は、ヤシの実の殻でありました。

バンブーチャイム

ヤシの実の殻って、なんか使えそう・・・。

そう思って作ったものの一つが、こんな風鈴なら、

ヤシの実って本当に捨てるところがない感じ。

自然なものからは、自然な、かわいい音色がしました。

20240715_自然の風と音

ヤシの実にストローを。

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


おそらく、人生最後となる春休みを堪能中、

「俺、ヤシの実にストロー指して飲んでみたい!」と次男がいきなり言いました。


二刀流になるわけでも、海賊王になるわけでもなく、

いきなり言い出した夢が、ヤシの実って・・・。


とはいえ、そう言われると、気になる。

私も、ヤシの実、どうやってストローをさすのか、半世紀生きて知らないぞ?


そこで、以前ダチョウの卵でさえ買えたんだから、きっと売ってるに違いないと、
アマゾンで調べてみました。

「あったよ・・・、ヤシの実も。」


そして、届いたのがこちら。

ヤシの実

2個入り。おまけつき。

もっと大きく、表面がフサフサだと思い込んでいたので、意外に小さく、しかも硬い。

表面に貼られた説明シールに書いてある、飲み終わった後のカナヅチの出番にも、一抹の不安を覚えます。


とりあえず、まずは丁寧に「OPEN」と書かれたところに穴を開けます。

ヤシの実

包丁で、グリグリグリグリっと。

ヤシの実

ココナッツの実が出てきました。

この、ストロー用の穴は、不思議なほど、労せず開く。

まるで、ストローで飲むために用意されてるような穴。

そして、中は、空洞。ここにジュースが溜まっているんだから、不思議な木の実です。

熟成されるうちに、中のジュースは果肉(胚乳)へと変化していくようなので、

若い実ほどジュースが多く、熟すほど反対に果肉が多い状態になる。

ふんふん、なるほど。・・・と言いながら、なんでジュースが胚乳になるのかも気になってきます。

なんで?なんで?なんで?

どんなにトシを取ってきても、世の中知らないことだらけ。

また、色々分かったら書くかもしれません。

それはともかく、ジュースです。

2個しかないので、味見用に、コップに少し注ぎ入れ、

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ヤシの実に、念願のストロー(太めのものが付属)を指します。

どれくらいジュースが入っているのか分からなかったので、コップには少しだけ。

意外や意外、それでも本体の方にはかなりのジュースが残っていたようでした。

さて、そのお味は?


う~ん。ミルキーなスイカ汁、エスニック風味。

不味くはないのですが、飲みなれていないので、不思議な味。


夢が叶った次男も、「う~ん。不思議なお味。」だそうで。


さて、問題の本体です。

春休み中なので、真夏のようにすぐ腐りはしなくても、
なるべく早く処理したいところ。

当時調べた時は、割る、身を削る、といった力任せなことしか出てこず。

後で知ったのですが、割った後、レンチンすると鬼皮はスルリと取れるようで。

それでも、柔らかくなった身に付いたままの薄皮は、やっぱり削って落とすみたいでした。

もっと深く調べたら、より簡単な方法があるのかもしれません。

とりあえず、カナヅチで割らないと。

わが家は猫さんズがいるので、びっくりさせるといけない。

場所を外に移します。

ヤシの実を割る

ガンガン叩いて、

ヤシの実を割る

やっと、大きな穴が。

ヤシの実を割る

埒が明かないので、トンカチどころか、ノコギリ登場。

ヤシの実を割る

やっと割れた!

・・・やっと割れたんだけど、まだまだこれから。

肝心の身を取っていかないといけない。

ヤシの実の身を削る

マイナスドライバーをノミ代わりに、カナヅチで叩きます。

もう、これ、あれですよ。

禅海和尚ですよ。青の洞門の。恩讐の彼方に、です。

もう、食べ物の身を取るレベルじゃなくなってきました。


岩肌を削るようにして、バラバラになったココナッツの身を

ピーラーやら包丁やらで、削り落としていきます。

そして、やっと削れた身を、とりあえずスライスしてみました。

正直、どうしていいのか分からず。

身もそこそこの、妙な弾力があるからでした。硬めのウリのような、ぶにゃぶにゃ少なめのイカのような。

どうするこれ?

とりあえず、ローストしてみました。オーブンで。

スライスしたココナッツの身を焼いてみる

焼いている最中は、ココナッツの焼けた香ばしい匂いがする。

きっと、カリカリになってるはず。・・・はず!

しかし、焼けども焼けども、カリカリにはならず。
妙な"しなり"、弾力はまだまだ健在。

どうなってんの???

仕方ないから、ミキサーにかけてみる。

ミキサーにかける

ガガガガガガガガガガガ・・・・・‼‼‼‼‼‼

あかん、ミキサー壊れそう。

なんなんやろ、この弾力。

そしてその後。

どうしたかと言えば、どうもしきれず。

ただ今冷凍庫を占拠しております。

あのまま、スルメの弾力をもつナッツとして食べるしかないんだろうか。

冷蔵庫に、どうしようもないココナッツの身を残したままの先日。

テレビで、あるの光景を目にすることとなります。

NHKの【サトリポ】と言う番組で、九州沖縄で暮らすアジアの若者の里帰りに同行する内容でした。

その時は、大分市でカレーショップを経営するスリランカの男性の里帰り編。

スリランカでは、カレーはもちろん色々なものにココナッツが用いられるようで、

男性の実家でも、料理上手なお母さんがココナッツを削る様子が映し出されていたのでした。

お母さんは、頑丈な土台に、斜めにキリがくっついたような道具で、
手でココナッツの実を動かしながら、内側をシャカシャカと削っているのでした。

・・・・道具あった~!

そりゃそうだ。いつも使うなら、それ相応の道具があるはずで。

細かく削れれば、弾力あっても、スルメにはなるまい。

きっと裂きイカ程度の感じでおさまるはずで。

かえずがえすも、後のことしっかり調べてから割れば良かったと後悔した次第です。


もし、「夏休みに、自由研究でやってみたい!」というチャレンジ精神旺盛なご家族の方は、
ぜひとも失敗例として、ご活用?ください。

いやはや、ストロー指したその後の方が、大変だった・・・。

そう分かっただけでも、良い経験となりました。

個人的には、ココナッツより、ダチョウの卵で目玉焼きを作る方をお勧めします。

目玉焼き完成

あ、でも、4人家族で食べ終えるのに4日かかったんだった・・・。

どこか、物好きなご家族の方、良かったらチャレンジを。

少なくとも、一生の思い出にはなる、と思います。

おそらく、笑える方の。

20240705_ヤシの実

おにあい

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


昔々、ケッコン祝いにと、いただいたティーカップがあります。

wedgewood

英国王室ご愛用の超有名メーカー、ウェッジウッド。

実は、1回来客時に使っただけで、あまり出番がなく。

うっかり割りたくないのも理由ですが、なんとなく似合わないというか。

高級そうで、お上品で、洗練されてて、のウェッジウッドに、私が追いつけない。

まさに、そんな【器】じゃないのです。


器に限らず、好みの傾向というものが人それぞれある。

素朴で、頑丈で、手づくりっぽい、土や木など素材そのものの感じが手に伝わるもの。

それが、私の食指を動かす根っこになっているようです。


さて、家の話です。

もくせい工舎の家は、どちらかと言えば、ウェッジウッド的ではありません。

もうちょっと、土くさいというか、人の手がつくった素朴さがあります。

しかしそれは、安っぽいのとは違います。


良い家が安く買えることは、理想ですが、

安く上げることを第一とするか、

素材や質を第一にしつつ、無駄なコストを抑えるか。

そこにはかなりの違いがあり、
そういった意味でも、もくせい工舎は、安さ地域一番!のローコスト住宅でもありません。


お金の問題は、非常にシビアだけれど、

住むことさえできれば、安いほどいいのか、

住む、暮らしていく場所として【良い家】を安くなのか、

本心では、どちらなのか見極めることが大事だと思います。

お金が関わってくると、身の丈に合う合わないで
贅沢は言えない気持ちになってきますが、

本当に望むものを見極めるには、「タダでもらえるならどれ?」で判ります。


例えば、器でいうと、どれを選びますか。

器の比較
(自宅にあるものを慌てて並べて、あまり良いものがなかったので、例としてあまり良くならず。スミマセン。)

住むのと同じように、どれも「飲む」ことはできる。

住むには、じゅうぶん。飲むにはじゅうぶん。ということです。

「それ以上、何を望む?」という声が頭をチラチラする。

でも、「どれをもらってうれしいか」を考えると、

自分が好みのもの、心が望むものが素直に出てきます。
(ひとそれぞれで、どれを選んでも間違いではない。)

それは、有名メーカーとか、値段、ステイタスなどなど、条件は関係なく、
ただただ、自分がうれしいもの。

しっくりくるもの。


色々なハウスメーカーがある中で、どれでもいいよと言われたらどれを選ぶか。

妄想すると、ホントウの素直な気持ちが見えてくるかもしれません。


そうそう。先日久しぶりに事務所に寄ったらこんなものが。

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お~。

これを見て、「お~。」と思う方は、もくせい工舎の家を気に入っていただけるかもしれません。

永家代表が、本業の合間合間につくっているので、まだ工事中ですが、完成のあかつきにはご紹介できたらいいなと思います。

自由に、思いのまま作っているからでしょうか、建物がイキイキして見えます。


「買う」となると、安さばかりに目が行きがちではありますが、

もし、タダでもらえるとしたら、自分が本当に好きなものを選びませんか?

それが、きっと本心から望んでいる、自分が好きな家なんだと思います。


安さ一番!ではありませんが、もし、心動かされる家として、もくせい工舎を選択肢の一つにしてもらえたら嬉しいです。

なにより、ご自身や、ご家族にとって、似合う家、しっくりくる家、心が晴れやかになる家を建ててほしい。


安かったから、ブランド品だからと、サイズ違いの靴を買っても、歩けない。

家づくりも然りで、自分の心身、生活にあうものが一番。

本当に好きな感じの家。

本当に、自分にしっくりくる感じの家。

たくさん、たくさん、色々みて、

本当に、心が動かされる家を、建てましょう。


そして、家と一緒に月日を過ごすうち、

訪れた人に、「○○さんに、似合うね。この家。」なんて言われたら、小さくガッツボーズしたっていいくらいです。

20240625_しっくり

またたびチャンス!⑥

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


またたびchance_6

前回の記事

花袋に戻って、簡単な夕食をとり、好きなだけ本を読んで、
いつもは聞けない音楽を聴きます。
(家では、猫のハチさんが、音に敏感で怖がるので自由に聞けず。)


夜、灯りを点けていると、窓の障子越しに、ビシバシ何かが当たる音がする。

・・・虫?

BBCには雨戸がなく、また木製の木枠の窓なので、少しのゆがみを抜けて、
虫が直接、室内の障子を、外から叩いているのでした。

ブブブブブブブブブブブブブ・・・・・!

ありゃ~、アブかなにかが、入ってきてしまった。

ベッドの上に立てば、電灯にいるところを捕まえられそうです。

ビニールの内側に手を通して、パッとつかんで、ビニールの口を閉じます。

・・・・刺されなくてよかったけど、たぶん、日中障子を開けた時に、
反対側がきっちり閉まってなかったのかもしれない。

前回来た時は、4月のはじめ。今回は、5月のおわり。

時期が違えば、こういうことも起こる。

もし、興味があって宿泊される方は、障子の締りにはお気を付け下さいませ。


1時間いつもより早めに寝たのに、ぴったりいつもと同じ睡眠時間で、
夜中3時に目が覚める。

人の体内時計って、おそろしい。


結局、それから寝付けず、本などを読んで、朝風呂へ。

私は、寝癖がひどいので、それを直さねばなりません。

誰にも会わないようにしながら、テイの湯へ。

芹川

夜からかなり雨が降っていて、朝もやの中、テイの湯から流れた湯気が上がっています。

去年は、真っ青な空の下、泳ぐ鯉のぼりが見えた芹川も、

202304_芹川のこいのぼり

芹川

今朝は、ちょっと寂しげです。


というか、こんな雨の中、風呂に行こうと誰も思わなかったらしく。

やっぱりテイの湯、ひとり占めでした。

・・・飲食店にはフラれまくってしまいましたが、温泉に関しては
貸し切り、独占状態。

これはこれで、・・・・よし!として良いのかもしれません。

朝食

朝食は、お粥セット。去年とちょっと違います。
(みそ玉は同じ。あまり食べる機会がないのでうれしい。希望すれば、お粥→白米のご飯も。)

202304_朝食
(こちらは、去年の。)

BBC長湯は、最大30泊できる湯治宿でもあるので、少しづつ違うのかもしれません。

8:00、8:30と時間が選べて、受付時にOKすれば、10分前くらいに届けられます。
(こちらが気にすることではないのですが、微妙な時間差って気を遣うだろうな~と思います。
お盆に持って、各離れを回るのは、雨の日なんかは大変そうです。)



朝食を頂いて、チェックアウトをすませ、あさイチで万象の湯に行ってみましょう。

以前行ったときは混んでいたので、開店早々なら、ちょっとはいいかもしれません。


昨日の夜から降り続いて、今日一日、ずっと雨の予想。

外で待つのもなんなので、開店までの数分を、車の中でつぶすことにしました。

・・・ところが、後から後から、じゃんじゃん車が来る。

しかも、結構なスピードで駐車場に乗り入れ、慌てて車を駐車し、
自前のお風呂セットを持って、(開店前のはずなのに)建物の中へ消えていきます。

???????

これは、先に来たからこっちが先なんて雰囲気じゃないぞ??

気が引けましたが、とりあえず受付くらいには行ってみましょう。

受付で、「昨日ラーメン屋さんで食事をしたんですが、割引券もらい忘れて。
レシートでもいいですか?」と聞くと、

「どちらかというと、レシートの方がいいくらいですよ」と快諾して頂きました。

う~ん、やっぱり言ってみるもんだなぁ~。

数百円と言えど、積もれば違うはず。恥ずかしがらず、言って良かったです。


それで、肝心のお風呂なのですが・・・。

地元の方が結構いて、ちょっと居心地悪かった。

万象の湯の内湯は、落花生の殻のような、大小の湯船がくっついた形をしていて、
大きい方が熱めのお湯、小さい方が冷たい、泡がつく炭酸泉になっています。

熱い方で体を温めた後、冷たい方に入ったり、露天湯に行ったりして、
交互に入って、長くゆっくり浸かることで効果がでるそうです。

その落花生のくびれの所に、地元の方が占拠していて、大声で話しているので、

冷たいお湯に入ろうとすると、落花生の周りをぐる~っと回って、
遠慮がちに入らないといけません。

わぁわぁ大声で話している間を割って入って、湯船をすっぽんぽんでまたいで入るほど、
さすがのワタシも、そこまで肝が太くない。

旅館で夜勤で働いて、その帰りなんでしょうか。

こちらは夜勤で疲れてんだ!気楽な観光客とは違うんやけ、良い場所は地元のもん!

・・・なのかなぁ。

せっかくの良いお湯で、みんな同じように料金を払ってるので、お互い譲り合って気持ちよく過ごせれば良いのですが、なかなか上手くいかないこともあるもんです。


仕方ない。そうしたくなる何かがあるんだろうし、私がそこに責任を負う必要は全くない。

露天風呂も雨だったので、落ち着かず。

そうそうに引き上げることにしました。


長湯にはたくさん、日帰りで入れるお湯がありますが
返す返すも、テイの湯で嫌な思いをしたことがない。

それは、老舗旅館としてのキリっとした何かがそうさせるのか、
事情を知らない同士、【おたがいさま】の距離をきちんと保てる雰囲気があります。


みんな、生きていれば色々あって、

その大変度合いも、力量と条件で全く違う。

大変なほど、エライなんて世の中になったら、
認められたいがために、自分がどんなに大変かばかり口にしないといけない。

そんな苦労自慢、大変自慢しか口にできない世の中ってどうなんだろう。

大変大変と大声で言う人が、一番大変かなんて計りようもないことです。
(我慢強くて、愚痴ひとつ言わない人だっている。)


そんな中で、訪れた先で出会った素晴らしい景色や、おもしろかった本、感動した映画、心が震えた音楽の話をすれば、
「そんなヒマあっていいね」となる。

その行きつく先は、人前でうっかり休むことも、息をつくこともできないギスギスした社会であり、

常に他人が自分よりラクしていないか、楽しんでいないかを見張る社会であり、

そんなお互いを監視し合う世の中で、いつ息をしたらいいんだろう。

役に立つことばかりが、もてはやされる社会で、
常に自分自身にも、他人にも、使えるか使えないかでジャッジされていくそんな社会で

存在意義すら、誰かに勝手に決めつけられる。

役に立たないものは、生きている意味がないなんていう。

その言葉が、他人にも自分にもどんなに、毒になるか分からないのに。


お互い、事情を知らない者同士、なんにも分からない。
何にも知らないんだから、思いやって、分け合って、譲り合う。

その余裕がないのは、ギスギスして、ガチガチになっているからかもしれない。


芸術・文化はビタミンのようなものだと、誰かが言っていたのですが

そういう意味で、円滑油のようなものかもしれない。

多すぎてもいけないし、全くなければ、上手く回らなくなる。


どちらかに偏りすぎることがないよう、心がけたいと思います。


「万事うまくいかない」はずの旅に出て、
確かに思っていた通りにはいきませんでした。

だけど、全く全部がダメってことはなかったです。

それはそれで面白かったし、

思い通りにはいかなかったけれど、思いがけないウレシイこともありました。


人生もそうなのかもしれない。

望んだものには選ばれず、拾われた先で頑張る以外方法がなくても、

それはそれで、なんとか今生きているんだから、

ありがたがって、おもしろがって
右往左往していいんじゃないかと、思います。

これで、またたびの話はおしまいです。

長々しつれいしました。そして、ありがとうございました。