満足は誰のもの

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


土と雑草のことが知りたくて買った
『自然栽培』という季刊誌に
『自分で治すという考え方』というコラムが載っていました。

バランス健康アドバイザーの工藤和也さんの記事で、

頑張りすぎて、
あれもダメ、これもダメ、と否定や排除ばかりするよりも、

頑なさをユルめて、
ありがたがって、しっかり噛んで食べるほうが

心身のバランスに良いのでは?

というような内容でした。

ご自身が、花粉症を治したくて、

ゴリゴリに食べるものに拘ってしまって
他人の食べているものにも口出しするようになり、

周囲に、BBQにも誘われなくなったことを書いておられたのは
爆笑してしまいました。

『自然栽培』という、こだわっていそうな季刊誌に
少し肩の力がユルむような記事で
とても印象に残ったのです。

さて、ここで本題です。


マーケティングは顧客からスタートする。

顧客の現実、欲求、価値からスタートする。

我々の製品やサービスにできることはこれである、ではなく、

顧客が価値ありとし、必要とし、
求めている満足はこれである、
と言えなければならない

ピーター・ドラッカー

広告を書いていると、ついついドラッカーいうところの、
【製品やサービスにできること】を伝えたくなる。

自然素材で家さえ建てれば、こんなメリットが!って言いたくなる。

無垢の木と漆喰の家の良さは分かっていても

自然素材で建てさえすれば
すべての問題が解決!
すべての病気が治る!みたいな書き方は
ちょっとアウトだと思うのです。

健康なものばかり食べていても
人間いつかは死ぬように

自然素材の家に暮らしても、
たまには風邪もひきます。

どんなに気を付けても
いつか死ぬ。

そんな死に方を選べない私たちが、唯一選べるとしたら生き方なので
時折、不安が暴走して、

頑なに偏ってしまうのでしょう。
・・・BBQに誘ってもらえないほどに。

それは、何を大事に生きていくかという
バランス配分の話になりそうです。

つまり、死に方より
大事にすべきは、生き方。

どういう状態の
心と体で生きてきたか、ってことじゃないでしょうか。


では、
顧客が価値ありとし、必要とし、
求めている満足はこれである、
と言えなければならない

ような家ってなんでしょう。

お客様には、
こんな風に暮らしたいというイメージがある。

それを叶えてくれそうな、家に会う。

いやいや、自分たちにはムリやろ~。

え?もしかしてできるのか??

その家が、建てている途中も、
住んでからも、

想像以上の満足度であったとき、

それは、きっと大切な誰かに勧めたくなる。

「不安やったけど、できたよ。
すごくいいよ」って。

「○○さんがこちらで建てていて、行ってみたら本当に良くて。
話を聞いても、おススメだと言われて・・・」


口コミレビューがあふれる今の時代にあって、

知らない誰かの「いいね!」より

知っている誰かの、お墨付きほど
信頼できるものは無い。

それは、
建ててくれたお施主様たちが

次建てることがあっても
【またもくせい工舎で】と思っていただけて叶うこと。

そういった方が多いほど、叶うこと。


顧客が建てたいのは

「工務店がこだわった」家ではなく

「自分たちがこだわった暮らし方」の家。

それが叶えば、家にはどこか
そのご家族らしさがでる。

その人となりや、個性がでる。

施工事例の一覧に、それを感じるかもポイントです。


「そうは言っても、今、何もできない」

そういった方ほど、できることがあります。


施工事例を、たくさん見てください。

実物をたくさん見てください。

そして、自分たちのこだわりを
少しでも叶えてくれそうな工務店を
見極める眼力をつけてください。


顧客のワタシが価値ありとし、
顧客のワタシが必要とし、
顧客のワタシが求めている満足

を満たした家を建てなくちゃ!

「誰かにこう言われた・・・」ってこともあるでしょう。

それでも譲れないことはあっていい!と思います。

お金出すのは、自分たちなんだから
顧客のワタシが満足しないといけません。

「なんも知らんけ、
アドバイスして、説得してやった」というのは相手の満足ですよ~。

大事なのは、例え経験が浅い人間の望みにも
「こうはムリやけど、こういうやり方は?」と代替案が提案できるかです。

間違っても、「は?そりゃ金だせるならやってやるよ」じゃ
ダメなやつです。

創意工夫できる、(色んな意味で)余裕があるかないか。それが大事です。


前述のコラムではないけれど、

ゆずれない部分の頑なと、
ユルめのバランス、

そして、ないならないで何とかする
【創意工夫】が大事です。

どうぞ、やれるだけやったという
【自分たちの満足】のいく家づくりを!


自分の手でやってみる【干物編】

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


庭の白モクレンが咲きました。

202315_ハクモクレン

わが家のモクレンはまだ小さいので
花に、私の鼻が届きます。

嗅いでみると、なんとも瑞々しくて
上品な良い匂い。

春がいよいよやってきました。

春は何かを始めるにも、良さそう。
暖かくなるって素晴らしい。
重い腰も、えいやっと上がりそうです。

その勢いに乗って
この頃、実験的に少しづつ
「自分の手で実際にやってみる」を増やしています。

半世紀ほど生きて、
あらためて自分があまりにも

自給率が低いこと
実体験として、何も知らないことに
驚いたからです。

口に入るものも
身に付けるものも
大半をお金を出して、買ってきます。

その中には、本当に大切なものもありますが
大半は、特に好きでもなんでもない
愛着も、思い入れもないもののような気がします。

服は特にそうで、

値段が高くなくて、
そんなに可笑しくなくて
この変な体形に
入りさえすればよい感じ。

生きて使える時間を、万能引換券である「お金」を稼ぐために使って

その結果買っているものに愛着がないなんて

なんていうことだろう。

とはいえ、めんどくさがりな上に不器用な私。

いきなり服は無理でも
簡単なものから
少しづつ「自分の手で」やってみることにしたのです。

簡単すぎて笑われそうですが。

干しシイタケって高いな~と思ったんで
生シイタケを干してみたり。

生シイタケ並べている時は
こんなに安く、たくさんの量を買ってきたんだから
やっぱり自分の手でやるのは
お得だ!と思っていたのですが

20230315_自分で干しシイタケ

干してみたら何のことはない。

市販の干しシイタケのボリュームは
適正のお値段くらいと知り。

しかも、売っているものの方が
乾燥もしっかりされていて、長持ちしそう。

とはいえ、これもやって見たからの感想(乾燥?)なのです。

干したものは他にも、サツマイモや大根、ショウガ。

ショウガはおろすより
乾燥させて粉にする方が簡単でした。

ショウガを薄くする際、繊維に沿って切ってしまったので
粉末後も、繊維だらけになってしまい、

そうか、最初から繊維を切るようにスライスすれば良かったのね~。

そう学んだことも新鮮でした。

やっぱり、実際にやってみて
失敗しないと分からない。

もっと若いうちにそれに気づけば良かったのですが

悔しいかな、気が付いたのが遅かった。
残念ながら、気が付いた【今現在】が一番若いのです。

少しずつ「自分の手でやってみる」お話。

次回は、【超手抜きコンポスト】です。

どうか、嫌いなことで死なないで

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「図書館で前に借りたんだけど、面白い本でね。
返した後も、しばらくしたら読みたくなって、また借りたりしよる。」

大分に住んでいた友人が教えてくれたのが
大原扁理さんが書いた『年収90万円で東京ハッピーライフ』という本。
(※その後増補されて『年収90万円でハッピーライフ』として文庫化されています。)

25歳から、週の2日だけ働いて
残り5日は隠居生活を送る大原扁理さん。

本を出版したころは
年収約90万円で、あの東京で、
それこそ「ハッピー」に暮らしていた方です。
その後、今度は台湾でも隠居暮らしを始めています。

「社会的成功から乗り遅れまくっている」という彼は、
世間一般が考えるフツーから脱出して、
自分にとって何が本当に
身も心もラクで幸せなのかを考えて、実践してみた人です。
実践とはいっても、がつがつした感じでなく
とても心地よく楽しそうな暮らしっぷりです。

扁理さん自身も
「同じような隠居を勧めているわけではない」というように、
読むと、なるほどなぁと納得する一方で、
「これ、家族がいるとそうもいかないなぁ。」と思う面もあり。

家族が全員、こういう考え方なら問題ないですが
強制はできないからです。

ただ、その一風変わった暮らしかた、考え方の中に、
妙に核心をついたものの見方をする人で、読んでいて
ハッとさせられることが多かったのです。

なかでも、仕事と就職について書かれている箇所は目から鱗でした。

ざっくりとしか書けませんが
大原扁理さん的な考え方では

「好きなこと」や「やりたい仕事」なんて
死ぬまで見つからなくっても、別にいいじゃないですか。
大事なことは、「嫌いなこと」や「やりたくないこと」で
死なないことですよ
、と。

・・・これはビックリした。

聡明すぎてビックリした。

好きなことで死ぬならともかく
嫌いなことややりたくないことで死ぬなんて、
本当に馬鹿ばかしい。

話は逸れるのですが、以前過大広告について考えてみたことがありました。
(注:もくせい工舎とは関係ないです)

例えば、実際に行ったこともない店を
過剰に褒めるような内容や、
使って本当に良いと思ってもいない商品を
過剰に評価するような内容で

例え、それがお仕事として
幾ばくかの収入を得たとしても
それって、結局は誰も幸せにならないんじゃないか。

目先のことだけ考えれば
自分はお金が手に入るんだし、
そういう依頼をしてきた会社は、一時的には喜んでくれるんだろうけど
実際にお店がとても褒められたものでなかったり
商品が悪ければ、
会社側も信用を失うし、広告も信用を失うことになる。

大原扁理さん的考え方を借りると、ではどうしたらいいのか。

その仕事(ここでは過大広告ですが)が本当に好きで、
これで死んでも悔いはないなら、構わないかもしれない。

でももし、「こんなことが理由で死ぬのは勘弁してほしい。」
そう思うのなら
「やっぱり、やめとこ!」という道もあっていいのではないか。

過大広告書いて、自分の中にモヤモヤした
毒を貯めるくらいなら
書かずに飢え死にする方が
納得して死ねるような気がしたんです。

(繰り返しますが、もくせい工舎とは関係ない仕事のことです)


自分は本当は望んでいないのに、
「仕方がないから」「任務だから」でやりたくないことを
やらされることもあるかもしれない。

仕事や学校、家庭内だけでなく、国単位でも。

ただ、やりたくないこと、嫌いなことで
どうか死なないでほしい。

命令する人間は無傷で、
なんで小さな子が死ななくてはいけないのか。

知らなかったとはいえ、
命令とは言え、
好きなことで死ぬならともかく
なぜ納得いかないことで
死ななければいけないのか。

例え、うまくいったように見えても
力で外部を抑え込むボスは、
仲間内だって同じことをする。
気に入らなければ、次はあなただ。

みんなボスが好きだから傍にいるわけではない。
怖いからそうしている。

そんな関係は、いつか破綻する。

友人関係にしろ、もっと大きな組織にしろ。

どんなにタダシイ(と思い込んでいる)人が、
どんなにタダシイ(と思い込んでいる)目的のためであっても、

誰かの「それからも続くはずだった人生」を奪っていい理由にはならない。

「嫌いなこと」や、「やりたくないこと」で
どうか、もうこれ以上
誰も死なないで。

なつかしさの裏側には

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


先日、ある廃校にお邪魔しました。

待ち合わせた友人が、
「朝、廃校になった小学校の草刈りでね。
でも、すぐ終わった。
『いっつも手入れしよるけん、時間がかからんで終わるけどね~』
っち、近所の人たちと言いよったんよ~」
というので、

「廃校...。」

「うち、地区が自分たちで管理するけって
廃校になった後も、手入れしよるんよね~。
普通、市の業者かなんかが来るんやろうけど。

今、地区でサロン開いたり、資料展示したりしよるんよね~。」

個人的には、廃校って
どこぞの団体なんかがリノベーションして
うんたらかんたらというニュースばかり聞くので

「自分たちできちんと管理するから!」という地区の話は
とても意外だったのです。

廃校になって、第三者にわたった学校が
何だかすっかり"こじゃれ"てしまって、
地区とは一線を画す、別物になってしまうような
思い込みがあったのかもしれません。

よくよく考えたら、
廃校をリノベーションして、カフェとか、シェアオフィスとかは
「新店舗オープン!」と宣伝されるので、知っているだけかも。

地道に、地区が手入れしているという情報は
わざわざ、あまり報道されそうもありません。

なんとなく、その大事にされている学校を見に行ってみたくて
忙しい友人に付き合ってもらって
訪れてみた、というわけです。

場所は、中津市津民の河川プールのまだ上流。
長岩城跡の近くの、永岩小学校。
旧とつけたくなりますが、まだ使われてますものね。

210915_校庭から校舎を望む

小さな校庭に桜の木。
そして、こじんまりとした校舎がありました。

210915_nagaiwasyo_1.jpg

正面には、木製の手書きの表札。

210915_職員室前210915_ガラスの建具
古い木の建具が味わい深い、職員室前。

210915_保健室前のかわいいボード210915_長い土間付きの廊下
手づくりの可愛い掲示板のある保健室前。土間が平行する廊下をはじめて見た。

210915_体育館
小さめのかわいい体育館も。烏骨鶏とウサギの飼育小屋もあった。

まず案内してもらったのが、最後の在校生たちが作った
長岩城の模型。

なんでも、先生に
「賞をとったら、東京に呼ばれるけん、
東京ディズニーランド、いけるぞ!」
と、のせられて(?)放課後残ってまで
完成させた力作です。

山城の様子を分かりやすく伝えるために
等高線を参考に、山の起伏を表現したり。
特徴的な平べったい石積みを、忠実に再現したり。

崖が危険だからって、「落ちたら死ぬ」と書いてあったのには
笑いました。

「本当だ。落ちたら、そりゃ~死ぬかも(笑)」

その作業の様子や、学校行事の様子が
掲示されていて、友人から
地域あげての運動会の様子も聞きました。

「70、80のおばちゃんたちが、
もう、元気いいでな~」

地区の敬老会も、ここでやっていたとか。
写真には、何とも楽しそうな
笑顔が並びます。

あえてこの自然豊かな環境を気に入ってくれた
先生も少なくなかったようで、
校長先生入れて、4~5人の先生たちの
満面の笑みの集合写真もありました。

大型校では、あまり見ない類の教職員写真です。
(大型校も、満面の笑みで写ったって良さそうなのに。)

私の友人も、ご主人も、お子さんも、今は亡きおじいちゃんも
この学校の写真に楽しそうに写っていました。

ふと思ったのは、懐かしさには
必ず裏に、温かな思い出があるということです。

辛い記憶や、それにまつわる傷が癒えていないうちは
なかなか、その場所を懐かしく思い出すことなんてできないからです。

大きな桜の下、地区の人たちが
お弁当を広げ、楽しそうに笑う写真に
「自分たちが管理するけん」の
意味が分かったような気がしました。
(気がしただけ、かもしれないけれど。)

地区の絆って、無理強いして
できるものではないように思います。

嫌々参加っていう人もいるかもしれない。

かくいう私も、あまり地区の行事やPTAは好きではない。

ただ、少しずつ、
色々もやもやはあっても、少しずつ
顔なじみになる、
名前くらい知ってる人になる、
話をしたことがある人になる、
笑いあったことがある人になる、

そういった些細なことの積み重ねが
地域で生きるってことではないかと
この歳になって思うことです。

今いる場所が、いつか懐かしく思い出されるように、
色々あっても、どこか温かい記憶として残れば
良しとしたいところです。

地区もそうですが
子ども達にとって、我が家もそうかもしれない。

顔をあわせれば、嫌みや忠告しかででこない親がいる実家より
近所のおばあちゃんの方がよっぽど懐かしいなんてことだってある。

それってやっぱり、【居心地の良さ】ではないでしょうか。

居心地のよかった場所は、
きっと思い出しては
【懐かしい場所】になるのだと思います。

そんな居心地の良い
思い出の場所の一つが
わが家であれば、親冥利につきそうです。

そんな居心地の一助になりそうな木の家が
もうすぐお目見えします。

そうそう、宣伝なんです。
だって、自然素材の工務店もブログですもの。
ちゃんと、告知しとかないと(笑)

どうか、こちらもぜひ
良かったら、一度ご覧ください。
お待ちしております。

9/25・26 国東市完成見学会