こめた心なんて計れないから

「心をこめて作りました」

そう付け足した途端、何かベツモノのようになってしまう。



どんなに自分なりに真摯に向き合ったつもりでも

そう付け足した途端、「相手のためだけ」ではなくなるような。

それは、「心をこめて」と言う言葉があまりにも、

広告などで気軽に目にするからなのか

「心をこめて」とつけた途端

真摯さが目減りしてしまうような、そんな気がしてしまうのです (・ω・;)
「心をこめて」ってつけたされると、暗に「ありがたく思え」的付加価値を付けられたように感じるから?( ̄▽ ̄;)
「あなたのために心を込めてつくった」としつこく言われて食べるご飯って
・・・あまり楽しく食べれないような、あんな感じでしょうか(^▽^;)



こめた心の量なんて計れない。



計れない、「見えないもの」だからこそ

誰にも見られていなくても、誰にも褒められずとも、

やっぱり同じことしかしなかったか?ってことかもしれません(・ω・)


映画『おみおくりの作法』パンフ


春に友人と『おみおくりの作法』という映画を見に行きました。

詳しくは

ジョン・メイはロンドンの地区民生係。

彼の仕事は独りきりで亡くなった人を弔うこと。

亡くなった人の宗教を調べ、ふさわしいBGMを選び、

その人のために弔辞を書き、親族や知人を葬儀に招待し

葬儀に列席する。



事務的にこなすこともできるその仕事を

彼は、手間暇かけて「心をこめた」おみおくりをします。

仕事に時間をかけすぎるからと、リストラもされます。



そんな、はたから見れば決して「勝ち組」ではない彼の生き方。

不器用で、純朴で、打算しない。



後半はかなり、ワタシはショックでした( ̄▽ ̄;)・・・そんな〜↓って感じ



ショックだったのは、やっぱり自分の中に

どこか「最後に正義は勝つ!」とか「努力はきっと報われる」的なことを

期待しているからだと思います。

ラストでは、違うカタチで「報われた」のですが、正直なところ

どうせなら「現実的に」報われて欲しかったのだと思います( ̄▽ ̄)



でも、見終わった後で、これほど色々考えさせられる映画はなかった。

分かりやすい感動、分かりやすい涙で終わらなかった分、

後々までジョン・メイの生き様について

繰り返し繰り返し思い出し、深く考えさせられたのです(・ω・)



自分は、ジョン・メイのように生きれるだろうか?(。´・ω・)…



あの映画の中で、ジョン・メイが仮に、

自分の行いが「現実的な報い」を受けることがないと

もし初めから分かっていたにしても

彼はやっぱり、同じことしかしなかったんじゃないか (。´・ω・)?

損とか得とかじゃなく、

そうせずにはいられなかったんじゃないか?

彼にとって、独りぼっちで死んでいった人の人生を思いやり

敬意をこめて見送ることは

損とか得とか、褒められるとか馬鹿にされるとか

そんな「どうでもいいこと」で

変わりはしなかったのだと思うのです(。´・ω・)

真摯に向き合うこと。

打算なく「真面目」であること。



こめた心は目に見えない。



見えないものだからこそ

褒められることなく、人知れず

黙ってやったこと。



それが、本当の「心をこめる」ってことかもしれません。

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