どうか、嫌いなことで死なないで

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「図書館で前に借りたんだけど、面白い本でね。
返した後も、しばらくしたら読みたくなって、また借りたりしよる。」

大分に住んでいた友人が教えてくれたのが
大原扁理さんが書いた『年収90万円で東京ハッピーライフ』という本。
(※その後増補されて『年収90万円でハッピーライフ』として文庫化されています。)

25歳から、週の2日だけ働いて
残り5日は隠居生活を送る大原扁理さん。

本を出版したころは
年収約90万円で、あの東京で、
それこそ「ハッピー」に暮らしていた方です。
その後、今度は台湾でも隠居暮らしを始めています。

「社会的成功から乗り遅れまくっている」という彼は、
世間一般が考えるフツーから脱出して、
自分にとって何が本当に
身も心もラクで幸せなのかを考えて、実践してみた人です。
実践とはいっても、がつがつした感じでなく
とても心地よく楽しそうな暮らしっぷりです。

扁理さん自身も
「同じような隠居を勧めているわけではない」というように、
読むと、なるほどなぁと納得する一方で、
「これ、家族がいるとそうもいかないなぁ。」と思う面もあり。

家族が全員、こういう考え方なら問題ないですが
強制はできないからです。

ただ、その一風変わった暮らしかた、考え方の中に、
妙に核心をついたものの見方をする人で、読んでいて
ハッとさせられることが多かったのです。

なかでも、仕事と就職について書かれている箇所は目から鱗でした。

ざっくりとしか書けませんが
大原扁理さん的な考え方では

「好きなこと」や「やりたい仕事」なんて
死ぬまで見つからなくっても、別にいいじゃないですか。
大事なことは、「嫌いなこと」や「やりたくないこと」で
死なないことですよ
、と。

・・・これはビックリした。

聡明すぎてビックリした。

好きなことで死ぬならともかく
嫌いなことややりたくないことで死ぬなんて、
本当に馬鹿ばかしい。

話は逸れるのですが、以前過大広告について考えてみたことがありました。
(注:もくせい工舎とは関係ないです)

例えば、実際に行ったこともない店を
過剰に褒めるような内容や、
使って本当に良いと思ってもいない商品を
過剰に評価するような内容で

例え、それがお仕事として
幾ばくかの収入を得たとしても
それって、結局は誰も幸せにならないんじゃないか。

目先のことだけ考えれば
自分はお金が手に入るんだし、
そういう依頼をしてきた会社は、一時的には喜んでくれるんだろうけど
実際にお店がとても褒められたものでなかったり
商品が悪ければ、
会社側も信用を失うし、広告も信用を失うことになる。

大原扁理さん的考え方を借りると、ではどうしたらいいのか。

その仕事(ここでは過大広告ですが)が本当に好きで、
これで死んでも悔いはないなら、構わないかもしれない。

でももし、「こんなことが理由で死ぬのは勘弁してほしい。」
そう思うのなら
「やっぱり、やめとこ!」という道もあっていいのではないか。

過大広告書いて、自分の中にモヤモヤした
毒を貯めるくらいなら
書かずに飢え死にする方が
納得して死ねるような気がしたんです。

(繰り返しますが、もくせい工舎とは関係ない仕事のことです)


自分は本当は望んでいないのに、
「仕方がないから」「任務だから」でやりたくないことを
やらされることもあるかもしれない。

仕事や学校、家庭内だけでなく、国単位でも。

ただ、やりたくないこと、嫌いなことで
どうか死なないでほしい。

命令する人間は無傷で、
なんで小さな子が死ななくてはいけないのか。

知らなかったとはいえ、
命令とは言え、
好きなことで死ぬならともかく
なぜ納得いかないことで
死ななければいけないのか。

例え、うまくいったように見えても
力で外部を抑え込むボスは、
仲間内だって同じことをする。
気に入らなければ、次はあなただ。

みんなボスが好きだから傍にいるわけではない。
怖いからそうしている。

そんな関係は、いつか破綻する。

友人関係にしろ、もっと大きな組織にしろ。

どんなにタダシイ(と思い込んでいる)人が、
どんなにタダシイ(と思い込んでいる)目的のためであっても、

誰かの「それからも続くはずだった人生」を奪っていい理由にはならない。

「嫌いなこと」や、「やりたくないこと」で
どうか、もうこれ以上
誰も死なないで。