ねじれた木

育った場所によって木には癖が生じる。

斜面の木は風をうけ、幹は捩れてしまう。

木は必死にもどろうとするわけで

(その結果)ひねくれた木ほど目が詰まっていて

強度に優れている。だから田舎づくりの家では

曲がった木を梁や桁に使っていたのだ。


前回のブログで、この菊池恭二さんの言葉を書きながら

「捻じれた木」について色々考えさせられました(・ω・)



捻じれてしまって、おまけに強度がある木なんて

こちらの思うとおりに加工できない。

まっすぐで、素直で、加工しやすくて

おまけに広く取れるならいうことない。

「扱いやすい」「役に立つ」そんな木なら。

しかも、それが「長持ち」したら。



自然の「欠点」を、人の都合に合わせて開発されるのが「人工物」。



でも、人間は完璧でない。

何かを優先させれば、何か別の問題がでてきて、非常にバランスが悪くなる。

「自然」は人の都合に合わせてはくれないけれど

困りながらも、「自然と」うまくいくようにできている。



まっすぐで、明るくて、素直で、

そんな誰からも好かれる自分であったなら

どんなに生きやすいだろう、そう思ったことがあります。

自分も、斜面の木のように捻じれ、ひん曲がっているから( ̄▽ ̄;)



でも、大樹ならともかく

都合よく「最初からまっすぐな木などない」のだという。



人間だから、「個」として譲れない所はあっても

「社会」の中で生きていく、「協調」もいる。

でも、人間は、他の誰かの都合に合わせた「人工物」ではない。

人間も、「自然」。

大事なのは、きっとバランス(・ω・)


「木も人も 癖があるから面白い」


「そんなんしたら、おかしいよ」

「そんなこと言うの、お前だけやぞ」



「みんな違ってみんないい」

そう言いながら、「変」であること、「違う」ことを受け入れられる人は少ない。



でも、みんな同じことをし、同じことしか言わないのって

・・・・・気持ち悪い・・・( ̄▽ ̄;)



違っているから、みんなが思いもしないようなことが考え付く。

違っているから、みんながやらなかったことができる。

だから、「お互い」が要る。

自分以外の、「違う誰か」が要る。

行き詰った時は特に。

同じ考えの、同じような人間ばかりでは埒があかない。



自分とは「違う捻じれ方」をした誰かが要る。



風雪に耐え、強風に揺れながら、木は根を張ると聞いたことがある。



雪の重みに弛む木は折れないけれど

カタい木はポッキリいくのだとも。



風雪に耐え、へこみながら、捻じれながら

いつかどっしりとした大樹になるのかな。

捻じれすぎた、小さな木でも

おじいさんの杖くらいには、なれるかな?(・ω・)


誰かを支えることが、できるかな?

職人

「叱る」と「怒る」は違う。

「怒る」が「罵倒」なら、なおのこと。

そこに信頼関係はない。

「お前らみたいなのは、将来何の役にもたてんのじゃ!」

そう「罵倒」する側にも、その「罵倒」に耐える子供たちにも

その間に、「温かい」ものは何もない。

勢いのあまり、何が本当は言いたいのか

ちっとも伝わらない。


「俺の仕事は、育てる職人だと思うとる」

私も、教職に就く人は「教え、育てる職人」だと考えたことがあった。

偶然にも、その罵倒する先生と同じことを考えていたのです(・ω・;)



「木も人も 癖があるから面白い」

宮大工・菊池恭二氏の言葉です。

「法隆寺の鬼」と謳われた西岡常一氏に師事し

「教えない」ことで人を育てる、職人さんです(・ω・)



育った場所によって木には癖が生じる。

斜面の木は風をうけ、幹は捩れてしまう。

木は必死にもどろうとするわけで

(その結果)ひねくれた木ほど目が詰まっていて

強度に優れている。だから田舎づくりの家では

曲がった木を梁や桁に使っていたのだ。



ワタシは教育の専門家でも、大工さんでもない。

でも、

木が好きで好きで仕事をしている職人さんと、

ただ「労働」としている職人さんは

「木の活かし方」が違う。


扱いづらいからと、「ダメな木」「使えない木」「役にたたない木」と

捨てたりしない。

自然のかけがえなさを分かっていればこそ

「どうにか自分の知恵と技術で活かそう」と模索する。



その「職」に就く「人」は「職人」さんだ。



でも、その手から生み出し、その手が育てるものが

心から好きか、かけがえないかで

全く違ってくる。



「扱いにくい木」は廃材にもできるかもしれない。

でも人間は?



自然が好きか?

木が好きか?

人が好きか?



不器用でも、模索し続け、慈しむ。

その「職人」の手から育つものは

やっぱり「温かい」のだ。