ヌチドゥ、タカラ (いのちこそ、たから)

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


豊後高田市の玉津東天紅という小さな映画館に、
映画を見に行きました。

いつか行ってみたい映画館であったのですが、
なかなかご縁がなく。

今回、ようやく足を運べることとなりました。

見に行ったのは、『丸木位里 丸木俊 沖縄戦の図 全14部』という作品です。
(~8/16まで上映。13:30~。今回そのために、少し早めに記事を書いています。)

8/6の広島の原爆の日から、8/15終戦記念日のあたりで
大分県内の各ミニシアターで、先の戦争に関する映画が多く上映されているようで、
気になっていた作品もあり、どうしようかと迷っていたのでした。

最近YouTubeなどで、外国の方々が広島の平和記念資料館を訪れる動画が出てきて、
日本にいながら、私は何やっとんのかな?
と、ちょっと恥ずかしくなってしまったのです。

中でも『ひろしま』という作品は、数年前テレビ放映され、
録画しているにもかかわらず、見れていません。


『ひろしま』は原爆投下から8年後、
実際に原爆を経験した方たちがエキストラとして参加し、公開された映画です。

きのこ雲の下で、あの時何が起こっていたのかを伝える『ひろしま』。

実は、未だに録画を見れていません。

被爆した小さな男の子が、真夏だというのに
寒さでガチガチと震えるシーンがあるのですが

その子が、うちの次男坊の小さいころにそっくりで
怖くて、怖くて、見れないのです。
(映画館ならお金も払うし、向き合ってちゃんと見るかも?と思ったのですが
やっぱり無理だった・・・。)

情けないかな。私は、教科書で知る範囲に毛が生えた程度しか
沖縄戦のことも知らない。

だから、あの丸木位里、俊夫妻の目を通してみた
沖縄を、ちょっと見に行ってみようと思ったのでした。

丸木位里・俊夫妻の名は覚えていなくても、
絵は、見たことがある方が多いと思います。

私は、小学生のころ見た『ひろしまのピカ』という絵本の印象が強烈で
名前もよく記憶しないまま、
とにかく、こわい感じの絵!とだけ覚えていたのです。
(子どもの感想なので、こんなものです。しかも、私だし。)


絵に関しても、先の戦争に関しても、
知識のない私が、特に話せる内容などないのですが、
特に心に残った点が数点ありました。

中でも、読谷村の2つのガマの命運は考えさせられました。

読谷村に、米軍が上陸した時、
住民は二手に別れ、逃げました。

チビチリガマと、シムクガマです。

チビチリガマでは、集団自決(日本軍による強制集団死)
かたや、千人近くが生き残ったシムクガマ。

同じ集落の命運を分けたキーになるのは、

日本軍が同行していたか、
英語で交渉できる人間がいたか

たったそれだけでした。

あれ?なんで日本を守る日本軍と一緒にいて、
そちらが壊滅的な結果になるの?

そう思いたくなる。

しかし、沖縄で起こった実際は、そうじゃない。

日本を守るはずの日本軍に追い出されたり、
殺されたり、自決を強いられたり。

シムクガマには日本軍が同行していなかったうえ、
ハワイ移民帰りだった男性2人がいた。

いよいよアメリカ軍に殺されるとパニックになる住民に、
「アメリカは民間人には手を出さないと言っている」と伝え、
アメリカ軍と交渉したとのことでした。

ここに日本軍が同行していたら、こうはならなかったかもしれない。

当時の「正しき日本人」として、死を強制されたかもしれない。

つくづく思う。
誰かの言う、「正しい」って何なんだろう。


丸木位里、俊さん作の絵本に
『おきなわ 島のこえ』 ヌチドゥ タカラ<いのちこそ たから>というものがあります。

絵本では、つるちゃんのお母さんのセリフとして出てくる言葉。

「ワラビンチャー、ヒンギリヨー。
(こどもたちよ、にげなさい)
ヌチドゥ、タカラ」
(いのちこそ、たから)

映画の中では、強制集団死で
愛する身内に手をかけざるをえなかった少年が

日本軍による命令で、凄惨な殺し合いの中、
自分のお母さんが発した言葉としてでてきたように記憶しています。
(違っていたらスミマセン。)

(死ぬのはいつでもできる。)
こどもたちよ、にげなさい。

いのちこそ、たから」


何かの「正しさ」を強制されそうな時。

空気を読んで、従わねばならぬように思う時。

そこに「否」をつきつける誰かがいる。

それで助かる命がある。


人間が、人間として生まれ、
次の人間を育てること以上に
大切な役目などない。

それは、産み育てるだけでなく、

血のつながりのあるなしに拘わらず、

守り、育み、次につなげていくことでもある。

誰かの親になるとかだけでなく、

後から来る子ども達のために
スクスク生きやすい世界をつくることでもある。

残念ながら、そうでない時、
勇気を出して、私は言えるだろうか?

「こどもたちよ、にげなさい。
いのちこそ、たからなんだから」と。

戦時中でもない、今の世で
子ども達が(あるいは、かつて子どもだった大人たちが)、何かに強いられるように
命を絶ってしまう

その「正しさ」[こうあるべき」は、平和なこの時代にも
あるんじゃないか。

そう考えてしまいました。

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