怒らせるとコワイことより

「わたしを怒らせると怖いんですよ」

どんなにニコニコ笑って、朗らかに握手を求めてきても

こんなことを相手から言われたら

・・・握手するのも恐ろしい・・・(´-ω-`;)



怒らせるとコワイということは、

怒るような事、気に食わないことをすれば容赦しないと言っているわけで

その人のご機嫌を少しでも損なえば

痛い目に合うんだから、言動には気をつけろってことです( ̄▽ ̄;)



世の中には様々な人がいて

人の数だけ、大切にしていることや、価値観があります。

調和もすれば、摩擦もする、ぶつかり合うことだってある。



相手の言動に、「腹が立ったよ」「嫌だったよ」

それはNoなんだっていう意思を伝えることは大事ですが、

そこに「思い知らせてやる」ような気持ちを加えると

「怒らせるとコワイ」ってことになります。

「怒らせるとコワイ」ということを相手に「思い知らせること」は、

ただの脅しです。

脅威を与えて押し通す一方的な「信念」ほど、

危なっかしいものはありません(・ω・;)

しかも、「自分は絶対正しい」という信念のもとにやっていると

「思い知らせる」ことは常に正当化され、美化され、

「悪である相手には罰をくだすのが当然」という大義名分が付きます。

でも、人間誰にも「間違う」といことだってある。完璧ではない。

ましてや、実際ひどい目に合うのが個人対個人ならまだしも

集団、国家となると

お互い一番腹を立ててる相手(権力者)じゃなくて

ひどい目にあうのが、いつも民間人になる。

そこが一番怖いのです。


「怒らせるとコワイ」



「怒らせるとコワイ」国家。

「怒らせるとコワイ」集団。

「怒らせるとコワイ」人。



相手を脅すようなことをして、勝ち得たことなんて

泥沼の上に建てたお城です。



周りが恐れをなしてそれに従って、思い通りになったにしても

それは「コワイから」言うとおりにしているだけで

「信頼しているから」ではありません。



織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ

天下をとったほどの権力を手にしても

いつも地位を奪われることに内心怯えていなくてはならない。

だから逆らうものを容赦なく扱い、

常に「怒らせるとコワイ」ことを見せしめていないといけない。

権力を得ても、心はいつまでも平安でいられない。

信用の上に成り立っていないから、危害を加えられることや

足下をすくわれるといった「恐れ」で、お互い常に疑心暗鬼になる。

その力のバランスが少しでも崩れれば、お城がいつ沼の底に沈んでもおかしくない。



「怒らせてコワイ」ことなんて、何の自慢にもならない。

「怒らせてコワイ」ことの、根っこはすごく孤独だ。

だから、「怒らせてコワイ」より

「怒らせると恥ずかしい」国。

「怒らせると恥ずかしい」集団。

「怒らせると恥ずかしい」人。

それが一番強いのではと思います。



勇気をもって人のために道を進む人のご無事を、心より祈ります。





権力というほど大きな話ではなくても

相手より優位を保とうと「怒らせるとコワイ」

「怒らせるとまずいことになる」

そう思い知らせるのは、結局

心からの信頼なんてなく、優位であったはずなのに、

いざとなった時に「思ったより慕われていたわけじゃなかった」と

非常に寂しい思いをすることになるかもしれません。

それは、会社であり、学校であり、

はたまた家庭内の親子関係にあってもそうで

例え相手がわが子であっても、威圧するようなことは

褒められたことじゃないのかな、と思います・・・反省も含めて( ̄▽ ̄;)

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